Zephyr Cradle

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Ragnarok Online Variations


砂塵のラプソディ(後篇) #8

 相手の姿もきちんと目視出来ないほどの暗闇が辺りを包んでいる。
 草木も眠りにつく深夜、砂漠は凍えるほどの寒さと独特の砂の匂いで満ちていた。ロングコートとマフラーを羽織ってきたツァイトだが、それでもこの寒さの前では気休め程度にしかならなかった。
 空家の屋根から目標の邸宅を監視していたシュウの元へ到着したのは、イズルードを飛び出してからほどなくした頃。カプラが提供する転送システムはこういった急用の際に非常に役立つ。身に付けられない物品を転送する事が出来ないのが未だ不便ではあるけれど人々の間、特に冒険者の間で重宝されているという事実に変わりはない。
 モロクに到着してからはシュウのウィスパリングに記述されていた場所へとまっすぐに向かった。近くにスペサルティンの領地を臨む場所で監視をしているから合流して欲しい、と。別件で奔走しているアルティにもその内容は伝えてあるのでじきに合流するはずである。
「首尾はどうだ、シュウ」
「家の中で何やら騒動があったようですね」
 シュウは望遠鏡を外すとツァイトへ手渡した。
「家人たちが慌てています。街中にも何人か手下の男たちが出ていたようでしたが、彼らも先ほど慌てて戻ってきました。手には武器を握っていましたが……魔物でも出たのでしょうか」
「いや、それはないだろう。街中に魔物が現れたとしてもそんなもの騎士団や公安が対処するのだし、スペサルティンが関与する必要はないはずだ。男たちが出ていたのは、もっと別の、内情に関わることだと考えるのが妥当だろう」
 ツァイトが受け取った望遠鏡から邸宅の窓を覗く。このスペサルティンの家は贅沢にもガラスを嵌めているので内側がよく見えた。貴族の家にしては比較的質素であるとは言え、やはり無駄に施されている装飾類を見て心地良い印象は湧かない。
「それはつまり、イフェルとウィルアに関すること……ということかい?」
 ゲインの問いにツァイトは頷く。
「可能性としては高い。あの二人が何かしでかしたのか、それとも俺たちを警戒しているのか」
「僕たちを警戒? なんでそうなるんだ?」
 その問いには答えず、じっと望遠鏡を覗いている。取り敢えず二人が無事であるという事に、ゲインも少しだけ安心したような表情を浮かべていた。
 もしイフェルとウィルアが何かを試みたのならばそれはまだ無事……とまではいかなくとも、連絡を取ることが出来るかもしれないという期待が生まれる。殺されるようなことはない。スペサルティンもあの二人を売り捌く事が目的なのだから過度に傷を負わせたりすることは出来ないはずである。
 そう思えば自然と無事であるという結論に至るが、逆に動き回られているとなるとやりにくくなるのも事実ではある。ツァイトはそこが心配だった。むしろ人質として捕らえられているほうが交渉、実力行使と何かと立ち回りやすい。だがもし脱出などを試みていて場所が判らないとなると、ウィスパリングによる連絡も取れない上にスペサルティンとの交渉のしようもない。
 二人で無事逃げ延びてくれていることを祈るばかりだったが、それだけでは事は済まない。
 公安の依頼を引き受けたのは何より、接点を持つということと恩を売るということが目的だった。冒険者稼業を続けている以上、今後公安との関わりがないとは言い切れない。だからこそここで縁を持っておくことが何かの役に立つだろうと、ツァイトはそう踏んで依頼を引き受けたのだった。
 そもそも人身売買などということを見逃すわけにもいかない。今回は無事に依頼を達成する事も重要なのである。
「ツァイト、結局どういう作戦で行くんだ?」
 ゲインはかじかんだ手に息を吹きかけている。この空家の屋上という場所は吹きさらしになっているため夜風が非常に冷たく、長時間ここに居ることは厳しい。出来る事なら長居はしたくない場所だ。
「今はアルティさんを待ちましょう、ゲインさん。二度も説明するのは面倒でしょう」
「特に大した作戦ではない、がな」
 シュウはそれでもツァイトの作戦に期待しているそぶりを見せたが、正直今回は行き当たりばったりでどうにも上手く行くかは運次第。確実な要素が欲しいと願うがキーツの居ない今はそれに頼る事も出来ない。
「そういえば、キーツはまた何か仕事かい?」
 ゲインはがちがちと奥歯を震わせながら訊く。平生からギルドアジトに帰還することのないキーツと連絡を取り合えるのは、現在ではリーダーであるツァイトと放浪癖のあるシュウくらいである。だからゲインもキーツの所在や、ともすると生死すら知らないのである。
 ツァイトは一通り眺めた望遠鏡を外してゲインへ回す。
「何でも直接のご指名があったんだそうだ。キーツも暗殺者として名は通っているから当然といえば当然だ。今日は一度も連絡が取れないところを見るとそちらの手が離せないのだろう。俺たちだけで突入する以外にはないのが現状だ」
「そっか」
 キーツの暗殺者としての腕はツァイトも認めている。彼が居ればこの依頼も楽にこなすことが出来るだろうということは明らかだった。一匹狼な性格であるために元々手を貸してくれることなど期待はしていなかったのだが、居れば居るで心強いということも確かである。
 だからゲインの落胆は仕方のないことなのだ。
 前線で道を切り開かせることが出来るのはゲインのみ。後衛からシュウの矢とツァイトの魔法(ホーリーライト)を用いればなんとか凌げはするだろうが、疲労だけはヒールでも癒す事は出来ない。望遠鏡から邸宅を覗いた限りでも数十がうろついている。そこを切り抜けるともなればこのメンツでは容易でないということくらい目に見えている。
 更に言えばザーゲンの居る場所の見当もついていない。貴族の邸宅というのはどれも規模が大きく広い。そのためいちいちザーゲン本人の部屋を探していたのでは体力が持つはずもないのだ。
 現状では運次第であるこの作戦も、実際のところザーゲンに会わなければ意味を為さない。
 ツァイトが少しばかり苛立ちを覚えて、塀を握る拳に力が入ってしまったそんな時に聞き慣れた少女の声が聞こえた。
「リーダー!」
 ぎりぎり聞こえる程度の小さな声で叫ぶと、空家の真下にアルティが手を振っていた。走ってきたのか息が上がっている。
 そしてその横に、意外な人物が立っていた。
「……キーツ?」
 気付くとすぐにツァイトは梯子を駆け下りてキーツの元へと舞い降りた。
「さっきそこで会って『ツァイトに会わせろ』って言うから連れてきたのよ」
「ああ、助かる。それで、何故キーツはこんなところに居るんだ。暗殺の仕事を請け負ってたんじゃなかったのか」
 相変わらず口元に巻いているマスクの所為で表情を読むことは出来ない。
「ああ、まだ仕事の真っ最中だよ。これから依頼主と共にあの家の中に侵入するつもりだ」
 顎で指した家は紛れもなく、スペサルティンの邸宅だった。
 驚いた。まさかまた依頼が被ったなどという、本当に奇跡に近い事が起きているとでもいうのかとツァイトも我が耳を疑った。しかし横にちょこんと立っていたアルティがそれに補足する。
「違うのよ、リーダー。今のキーツの雇い主は、イフェルだって言うのよ!」
 ようやく梯子から降りてきたゲインとシュウの耳にもその言葉は届いた。それを聞いて真っ先にキーツへと掴みかからんとしたのは、ゲインだった。
「本当か、キーツ!」
「何度も言わせるな、オレはイフェルと共にウィルアを救出しに行く。それだけを伝えに来たんだ」
 キーツの口から聞くのは初めてじゃないですかとシュウがツッコミを入れたがキーツはあっさりと聞き流した。
「じゃあイフェルは無事ってことだよな?」
「当たり前の事を訊くな。ケガはしてるがそれでも動けない状態じゃない」
 ゲインの顔にはどっと安堵の表情が浮かんだ。確かにイフェルの安全が確認出来ただけでも大きな収穫だった。キーツの話から察するに、イフェルは未だあの家に捕われているウィルアを助け出そうと躍起になっているということだろう。これでウィルアがスペサルティンに捕らえられているということも判った。
 点と点を結んで作戦を練っていく。勝算が少しずつ見えてきた。
「キーツ、イフェルさんはこちらと合流する気はないのでしょうか」
 壁際からシュウがゆっくりと訊くと、キーツは視線だけを向ける。
「テメェらが何をしようとしているかは知らないがそのつもりはない。『自分の問題は自分で解決する』んだそうだ」
「自分の問題って……何も一人で背負い込まなくてもいいじゃないか。僕たちがそんなに信用ならないのか、イフェルは」
 ゲインが不満を垂れている間、ツァイトはふっと笑っていた。
 それはイフェルなりの信頼の形なのかもしれないと悟った。イフェルがどこまでこちらの状況を知っているのかは不明であるが、ウィルアの件は自分で解決すると言っているのだから何か策があるのかもしれないとツァイトは思う。何よりキーツがついているのならば安心だった。彼の腕は他の誰よりも信頼の置ける人物である。
 ゲインは自分もイフェルと一緒に行くと言い出したが、ツァイトはそれを制した。
「なんでだよ! ツァイトはイフェルが心配じゃないのか?」
「ゲイン、お前が欠ければこちらの戦力が足りなくなるんだ。ここはキーツに任せろ」
 う、とゲインが言葉に詰まる。
 ツァイトも心配でない訳ではない。だがこの状況では今のままで行くことが最善だと判断された。
「イフェルを信じろ、ゲイン。あいつなら必ずやり遂げる」
「……判った」
 しおれる姿を見かねてか、アルティの手の平がゲインの背を勢い良くはたいた。密やかに、澄んだ気持ちのいい音が暗闇の街に響く。
「痛ッ! ……なんだい、アル」
「あなた、イフェルの幼馴染みなんでしょ? あなたが信じてあげないでどーすんの。もっとしっかりしなさいよ」
「あーもう、判ってるって、それくらい」
「素直じゃないわねゲインは。うじうじしてて、みっともないわよ。それだからあなたは――」
 アルティはぶちぶちと日頃の行いを責め立てていく。それに対してゲインが膨れているとシュウも突っかかり、何やら出陣前の緊張感がどんどんと崩れていくようだった。それはそれでいい傾向ではあるので放っておく事にした。
 ツァイトはその状況を取り敢えず放置してキーツへ軽く目配せをする。するとキーツが面倒臭そうに一つ頷いて、すたすたと近付いてきた。
「なんだよ」
「一つだけ頼みたい」
 キーツは目を細めると静かに視線を返した。ツァイトが小声で短く意図を伝え終えると、キーツは表情を変えずに顔を離す。
「テメェも何企んでやがるか知らねえが……聖職者のやる事か、それは」
 言葉だけ呆れたように呟くとツァイトは口元だけで小さく笑む。
「成功すればそれでいいだろう」
「ごもっとも」
 それだけ会話を交わすとツァイトはコートを翻してゲインたちの元へ戻る。何やら顔を赤くしたゲインが小声で器用に騒ぎ散らしている。口元を押さえてくすくすと笑っているシュウと、真面目に何かを説いているアルティ。一体何をやっているんだと訝しんだが、それは無視して一同に視線を投げる。
 それに気付くとシュウとアルティがまだにやけた顔を戻し切れないまま姿勢を正す。
「準備はいいか? そろそろ突入する」
「キーツも去りましたか」
 ちらりと背後へ視線を向けると、キーツの立っていたところには既に影も形もなかった。用件だけ済ますとさっさと消えてしまい、手馴れた腕で手際良く仕事をこなす。それがキーツのやり方なのである。
 ツァイトは頷くと、先ほどキーツから聞き出した主の部屋の位置を望遠鏡で確認し、そして全員に順路を伝える。キーツが内部事情に詳しいのは非常に助かった。これだけでもかなり勝算が高まったと言える。
「ゲインは先頭を。その後ろには順にシュウ、アルティ、そして俺と続く。基本的には強行突破。あの邸宅の扉まで着いてしまえば残りは容易いだろう。目指すはスペサルティン当主、ザーゲンの居る部屋だ」
 標的の領地をもう一度見やる。領地は周囲を人の頭ほどの高さの塀に囲われていて、鉄製の正門は開け放たれている。そこからまっすぐ五十メートルほどある長い庭を抜ければ、金色の装飾の施された豪勢な玄関扉へと到着。固く閉ざされているが最悪蹴破れば問題はない。
 今、あの場所にウィルアが捕われ、イフェルがそれを救いに向かっている。そしてツァイトたちにやらねばならないことはザーゲンの行う悪事を全て暴く事。今はそれに、仲間の命すらかかっている。
 失敗をすれば己の命も、仲間の命もない。
 ――全く、いつから俺はこんなにも積極的になったのか。
 日々この者たちと暮らしていく中で変わっていったのか、それともこの仲間たちに救われたあの日なのか。
 ――どちらでもいいか。
 今はただ、あの家を目指すだけ。
「行こう」
「おうッ!」
 ツァイトが合図を出すと気持ちの良い返事が三つ返ってきた。
 金髪の騎士(ナイト)が数歩先頭を疾る。それに続いて東方の畏服を身に纏った狩人、小さな身体に似合わない両手斧を握った商人(マーチャント)。そして澄んだ焦げ茶色の髪をした聖職者。
 小さく短く詠唱をして全員に速度増加の加護を振りかけると、ツァイトも殿(しんがり)に付いて駆け出した。
 月が少し傾いだ。

***

「ハッ!」
 魔力によって作られた矢が広範囲に落ちる。それによって右手側の弓士たちの反応がなくなるのを確認すると、再び駆けるスピードを上げて玄関口まで急ぐ。
 左側面からの矢は未だに絶えず、ツァイトは魔力による防護壁を張ってある程度は防いでいるものの、流石に全ての矢に耐えられるほどの壁は作り出せない。各々に得物で迫り来る矢を薙ぎ払っては駆ける。
 敵の警戒は予想以上だった。何故こんなにも警戒が強いのか理解に苦しむ。たかが一人の人間を守るため、一人の人質を確保するためなのだと言われてもツァイトには解せない防衛線だった。こちらの動きが読まれていたのではないかと思われるほどの手勢が外に張っているのである。
 やはり、何かがおかしい。
 上手く出来過ぎているのだ、このシナリオが。
「リーダー」
 息を切らして走りながらアルティが呼びかけてきた。視線は寄越さない。
「さっきアジトを飛び出した後のことなんだけど」
 ツァイトはホーリーライトでアルティを狙っていた矢を落とす。それでも足を緩めることなく、一行はひたすらに駆け続けた。
「また何か判ったのか」
「ええ。アナエルに会ったんだけど……」
 アルティの語尾が口篭もる。
 今なんと言った。何故そこで再びアナエルの名が出てくる。
「……ごめん。やっぱり大した事じゃないから、忘れて」
 不思議な言葉を残したまま、アルティは苦々しくにこりと笑うと駆けるスピードを上げた。
 ツァイトにとっては気になるどころの騒ぎではなかった。これは、まさに――
「ツァイト、着くぞ!」
 玄関を守っていた傭兵をゲインが素早く抜き放った刀――居合いで一閃すると、どさりという重い音と共に身体が崩れ落ちた。華麗な気絶攻撃(スタンバッシュ)。騎士の得意とするこの剣技はこういった対人戦では非常に役に立つ。
 扉の前に到着すると背後からも傭兵が斬りかかってくるが、これもシュウの魔力を収束させた矢(チャージアロー)で弾き飛ばし、難なく気絶させる。一線引いた遠くではシュウの相棒がピィピィと行く手を阻んでいる。
 ここまで来れば矢の猛攻も凌ぎやすくなる。玄関についている幅の広い屋根が矢避けの壁となっているので扉の前まで届く矢の数は激減した。アルティも重い武器と小さな身体で必死に矢を避けていたので辛かったらしく、少しでも気が休められると判ると大きく息を吐いた。
「アルティさん、大丈夫ですか? 少し休んでいったほうが良いのでは……」
「冗談言わないでよシュウ。イフェルだって頑張ってるって言うのにあたしだけ楽しようなんて、そんなの自分で自分が許せないわよ」
 はははと笑うとシュウは遠目に相棒を見る。
「それでは、シュンにももう少し頑張ってもらってこちらは先へと進みましょうか。運良く、この扉に鍵はかかっていないようです。罠も見当たりません」
 ゲインが一つ頷くと、扉の前に大きく立ちはだかって全員に目配せをする。また一人背後から襲ってきた男をシュウが矢で吹き飛ばすと、一同は同時に頷いた。
 この扉の奥に何人の敵が待ち構えているか判らない。望遠鏡でそこまでは確認できなかったが、この状況ならば外よりも多いと予想するのが妥当だろう。多人数を相手とする場合はまず魔導士(ウィザード)の魔法で牽制をする事がより有効な手段であるが、今はないものねだりをしている場合ではない。このメンバーで最も近接戦闘能力に長けたゲインが先頭を切って飛び込んでいくのが、現状では最善策だと思われた。
 だが、扉の前まで来て感じたのはそんな思索とは裏腹の感触だった。
「この中……誰か居るのか?」
 ゲインはそれまで構えていた緊張を解いて、するすると重い扉を開けた。
 中に見えるは広々とした玄関。客を招き入れて一番初めに目にする場所であるだけに最も美しく手の込んだ装飾がなされている。天井は高く、絨毯に荒れた様子もなく丁寧に整っていた。
 そこに人が居た気配などありはしなかった。
「これは一体……どういうことでしょうか」
 シュウが眉を細めて周囲を見渡す。白い壁に白い柱、白い階段。人の姿は、全くない。
 四人は扉の内へ入り、その異常に驚いていた。邸宅の外があんなにも警戒されていたのに内側はこんなにも手薄だとは思ってもいなかった。氷結の罠(フリージングトラップ)とらばさみ(アンクルスネア)でも仕掛けられているのかと思い、ツァイトがシュウに訊ねるが、
「罠の類は一切見当たりません。今この視界に入る範囲では、少なくとも」
 すなわちこの通路はようこそいらっしゃいとばかりに口を開けてツァイトたちを待ち構えているのだということになる。だが、敵も罠もない空間――人はそれこそ「罠」と呼ぶのだ。
 明らかに怪しい空間ではある。だが、ツァイトたちに立ち止まっている時間などありはしない。
「罠があろうがなかろうが関係ない。それでも俺たちは進むだけしかないのだからな。行こう、隊列は乱すな」
「了解ッ」

 ゲインが颯爽と先陣を切って行く。
 キーツの言う通りであれば目的の部屋は遠くなく、ただまっすぐに直進していれば見えてくるはずの場所にある。通路は人が三人ほど通れるほどの広さで、ゆうに並んで駆けることが出来た。白い玄関を抜けると泥と土で出来た芸術的な壁を左右に見て、それがいかに素晴らしいかなどと考察することもせずにただひたすらに走った。
 その次は少し開けたテラスが現れた。床にはチェスの板のような白と黒の大理石が埋め込まれていて、ソファーや石の棚など優れた調度品の数々が散りばめられていた。一目見たデザインは派手ではなく地味なくらいではあるが、実際のところ小さな細かい装飾が施されていたりするので無駄に派手な品よりもよっぽど高価なのではないかと目を見張る。
 テラスからはオアシスの園へと続いていた。左右に緑溢れる植物と庭園を眺めつつ、宵闇に侵食されかけている渡り廊下を駆け抜けた。日が高いうちにこの場所を通り抜けたのならば美しい光景に目を奪われるのだろう。
 ドーム状の天井に四人分の足音が響く。
 ここまで罠は一つもなかった。人っ子一人見当たらず、その息遣いすら聞こえてこない。緑に忍んで矢を射てくるかと目を光らせていたがそんな警戒も無駄に終わり、目的の部屋が見えてくるまで誰ともすれ違うことなく、何の罠が発動する事もなかった。
「ぜーったいあやしい」
 アルティはそう言っているが、ツァイトもこれが罠ではないなどとは当然思っていない。後ろから誰かが追ってくる様子もなく、前から迫ってくる様子もないのは異様とも言えるがそれが一層警戒心を強めた。
 ――静か過ぎる。
 外の喧騒から随分と離れたこの場所ではもはやその騒ぎも耳には入って来ない。しんと静まり返った邸宅の中で、四人は静寂の中に取り残されていた。
「ツァイト、そこの部屋だよな」
「ああ」
 恐らくは、その部屋にこそ本物の罠が仕掛けられているのだろう。今まで現れていなかった分がそこに凝縮されているはずだ。
 まっすぐに走ってきた通路の正面にその部屋はある。そこは今までの回廊よりも一際明るい装飾と光源が施されていて、深夜なのかと疑うほどはっきりと物を見る事が出来る。来客の際はまず真っ先にこの部屋に通すのだろうという予測が立てられた。玄関からこの場所までの通路はどこを見ても申し分ないデザインが施されていて、そして極めつけとしてこの部屋が存在する。貴族の家はどこもこんなものなのだろう。ツァイトは今までに何度かこういった造りの家に呼ばれた事があるがその時も訝しんだものだった。
 四人が揃い、息の調子を整えてからツァイトが加護の魔法(ブレッシング)をそれぞれにかける。
 悠長に戦の準備が行えるほど誰も居ないし、誰の気配もしない。
 辛うじて部屋の中からは人の気配が感じられるが、回廊の物陰などに誰かが潜んでいるなどということはない。
「この調子だと、きっとこの部屋では素晴らしい歓迎が待っているんでしょうね。なんだか照れます」
 シュウはにこやかに笑いながら残る矢の本数を数えている。アルティがアジトにカートを置いてきたので補充が利かないため、慎重に把握しておく必要があるのだろう。
「この部屋にあの札があればいいんだけどね、そう上手く行くかな」
 ゲインが刀を抜き差しして刃毀れを確認する。
 ツァイトは首を振った。
「札なんか必要ない」
 その言葉に三人は驚いたように視線を集中させた。
 最も不思議そうな表情を浮かべていたのは、ゲイン。
「ちょっと待てよツァイト。札が要らないって、どういう……」
「もっと簡単な方法がある。ウィルアがまだ捕らえられているというのが幸いだった」
「何を言ってるんだよ、ツァイト」
 少しずつ不愉快さを露わにし始めたゲインをアルティが「落ちつきなさいよ」となだめた。
「こういう策はリーダー一人に任せましょ。リーダーのなら、信用出来るわよ」
 いきり立ったゲインは一瞬俯いて、それからふっと顔を上げる。
「僕たちは、何をすればいい」
 ツァイトは当たり前のことを訊くなというように即答した。
「俺、いや俺たちを守ってくれ」
「――了解!」
 あらかじめ鍵と罠の有無を調べておいたシュウが小さく頷くと、ゲインが扉の前に立ち――
 掛け声と共に蹴り開けた。

***

 目に飛び込んできたのは満天の星空。
 正面に嵌められた巨大な窓が多くの星を一つに囲っていた。
 部屋が広く明るいことよりも、まず目に入ってきたのはその外界の景色だった。
「ようこそ。『黄昏に染まる翼』の皆さん。歓迎するよ」
 正面の机にどっかと腰掛けた男が、仰々しく腕を広げながら出迎えた。指に挟んだ葉巻を灰皿へと押しつけると紫煙をふっと吐き出す。
「私がこの館の主、ザーゲン・スペサルティンだ。以後お見知り置きを」
 男は体格が良く、頭にターバンを巻いてモロクの貴族が着るような着心地のよい服に身を包んでいる。真面目そうな印象を与える表情をしていて、どうにも商人という柄には見えないなとツァイトは思った。豪商などというよりはもっと、普通の貴族と言った方が正しいかもしれない。
「市中抜刀禁令というのを知っているかね。君たちのその行為は法令に違反しているように見えるな。公安に通報するのは面倒だから自主的に仕舞ってくれないかな」
 ゲインは刀を鞘に仕舞ったまま柄の部分をザーゲンに向ける。
「先に攻撃を仕掛けてきたのはザーゲン、貴方の部下の方だよ。僕たちはただ自らの身を守っただけ――正当防衛だ」
「おや、そうだったか。それは大変失礼した。後できつく言い聞かせておこう」
 眉一つ動かさず、まあそこに座りたまえと言わんばかりに部屋の中央に備えつけられているソファーをザーゲンが示したが、四人は揃って無視した。一行は扉から少し離れた位置に立ったままザーゲンをやや見下ろす形で構えている。
 ツァイトは一歩前へ出てザーゲンをまっすぐに見据えた。睨みつけるような眼光で見下ろし、ザーゲンは何かあったのかと不思議そうな表情で見返している。
 ぐっと拳を握り締めた。
「一週間前からこの家に、うちのギルドの者が二人雇われているな?」
 ああその事かとザーゲンは緩く笑って返す。
「ウィルア君とイフェル君の事だな。いやあ、あの二人は実に手際良く働いてくれた。気が利くし些細な事にも気を配ってくれるし、本気で雇い入れようかと思ってしまった」
「あの二人、今どうしている? 先日から連絡が取れないので困っているのだが」
 これは嘘だった。ツァイトは一度もウィスパリングなど飛ばしてもいないので連絡を取る気もなかったというのが正しい。ゲインはそれに気付きながらも、周囲に気を配って黙っていた。
 ザーゲンは少し困ったような顔をしてみせた。
「今日の夕方、あの二人は仕事を完全に終えて解放したよ。報酬も持たせて帰還させた。まだ帰っていないのか、それは弱ったな。……どこかで道草を食ったりしているのではないかね?」
 その嘘を信じたザーゲンは、見事罠にはまった。イフェルはまた再びこの邸宅に潜り込んでいるはずであるし、ウィルアも捕われているはずだった。だからザーゲンも嘘をついているということは明白。
 だがしかし、ここでツァイトにはそれが嘘だと断言する事は出来ない。ツァイトたちもまた、二人がここに居るという物的証拠を持ち得ていないのである。
 それを突きつける事が出来なければザーゲンの嘘を確実にすることは出来ない。
「それはない。あの二人がこんなにも寒い夜に道草を食うなど、到底考えられない」
 ツァイトははっきりと言い放つが、ザーゲンの方はいまいち要点が飲み込めないと顔を捻っている。
「一体何が言いたいんだね、君は? どうも先が見えないのだが……」
「判らないか、ならば単刀直入に言おう」
 一つ咳払いをすると、ツァイトは指をびしりと突き付けた。
「あんたはあの二人を捕らえて、売りに出そうとしている。二人を俺たちと連絡の届かない場所へ幽閉して、未だ帰って来ていないというのはそういう事だろう。……違うか?」
 最初の一手を打つ。
 窓から見える星の輝きが暗い雲によって少しだけ覆われた。月が、陰る。
 ザーゲンはしんと黙ったまま、徐々に表情を変化させていった。
 そこに浮かび上がった表情は――笑み。
「――くくく、あはっ、あっはっはっは!」
 腹を抱えてザーゲンは笑い出した。ツァイトはそれを見ても表情を一切変化させず、ゲインだけが苛立ちのような雰囲気を漂わせ始めた。
「あははははは! 笑える冗談だね、ツァイト君。私が人を売る、だって? そんなおかしな事やっていると思うかい? どこからどうそう判断したのか、是非とも教えて欲しいものだね」
 心の底から笑いが込み上げてくるようで、本当に笑い転げた。
 冷静さを欠き始めているゲインを片手と片目で制止し、ツァイトは次の第二手を言い放つ。
「公安の調査結果だ」
 静かに告げると、ザーゲンの笑いが突如止まった。
 俯いたまま何かぶつぶつと呟いて、そしてゆっくりと顔を持ち上げていく。そこに、先ほどのような真面目な男の表情はない。
「公安……だって? なんで公安がそんなことをするんだ」
「俺たちには知りかねる。ただそういう情報を提供してくれただけだ」
 ここも事実とは少し異なるが決して間違ったことを言っているわけではない。事実ツァイトは公安からそういった内容の情報を知らされたのだから。
 ザーゲンは小さく何か考え込みながら、再び独り言を呟く。
 後ろで構えているアルティは呆れながら「なにあの人、頭ヤバイんじゃないの」とか言っていて、シュウはそれを聞いてくすくすと笑っている。
 ふとザーゲンは無理矢理な笑みを作ってツァイトを見上げる。先ほどのような威厳みたいなものはもう、ほとんど感じられなかった。
「公安が何故そんなことを吹き込み、どんなことを言ったのか私には判らないがね、そんな事実はどこにもないのだよ。今までにも確かに女中が失踪する事件は何度もあったが、それらを人身売買をやっているのだと思われるとは心外だな」
「その現場を見たという者が公安や商工会に居ると言っていた」
「そんなもの、いくらでもでっち上げられるだろう。君たちは証拠もないそんなデマを信じるというのかい? 見ただの聞いただのはいくらでも嘘がつける。もし真実であるというならなその現場を収めたフォトグラフでも見せて欲しいな」
 調子を取り戻したのか、ザーゲンは少しずつ饒舌になっていく。だが明らかに苦し紛れの言い訳だと見え見えだった。確かに公安の弁に証拠などはなかった。だが今のザーゲンはその証拠とやらを見せつけられた瞬間気を狂わせてしまうような、そんな精神状態であるように見受けられる。
 ツァイトも手元に証拠など何一つ持っていない。だからこの場では明らかにザーゲンの方が優位だった。証拠のありもしない証言など一笑に伏されておしまいなのだから。
 ――だが。
「ザーゲン、これが何か知っているか」
 ツァイトは握っていた手の平を開き小さな金色のバッヂをかざした。そこには小さな太陽と翼が描かれている。
「ギルド結成時に各ギルドへと配られるエンペリウム製のエンブレムだな。それがどうかしたのかい」
 このバッヂは今もシュウ、アルティ、ゲインの胸に付いていて、エンペリウム独特の少し曇った輝きを放っている。
 一般人がこれを手にすることはない。冒険者がギルドを組んだ際にしか手に入れる事が出来ない上に、このバッヂを流通させる事は固く禁じられているのである。だから冒険者でない者はまず一生手にすることのない代物。恐らくザーゲンも触れた事のないモノだろう。
「このバッヂがただの飾りだと思ったら、それは大きな間違いだ」
「……何を言いたいんだ?」
「このバッヂは王国直属の専門職人によって作られる。特殊な加工を施されていて、見る者が見れば判るのだが魔術の刻印も彫り込まれている。王国公認という特別な意味を込めてそういった高価な加工を施してあるのだという話だ」
 その製法については聞いた事がある人が居ても不思議ではない。そういった経緯や価値についてはよく噂がされているらしい。
 そんなことよりも、ザーゲンだけでなくツァイト以外の者たちには話がどこに行きつくのか見えてこなかった。何を言わんとしているのか予想がつかない。
「だから何を……」
 周囲の人間たちの理解が追い付いていないということを把握しながらもツァイトは語り続けた。
「このバッヂにはウィスパリングを発展させた特殊な魔法が刻まれている。それも、冒険者には特別役立つ魔法がな」
 ツァイトは人差し指と中指でそれを挟み、顔のすぐ側まで近付けた。
「魔力を注ぎ込みながらこのバッヂに語りかけると、他のバッヂからその声が聞こえるという仕組みになっている。互いに連絡を取り合う際に非常に便利なアイテムにもなるという訳だな」
「な……」
 ザーゲンはその意外なおまけ作用に驚いているが、ギルドに所属する者たちにとってはそんなもの常識である。
 この魔法もなるべく近くに居なければ声を伝える事は出来ない。ウィスパリングと違う点は同時に多数の人間に伝言を伝えたり会話が出来たりするということだが、今更ここで使って何の意味があるのかツァイト以外の人間には判らなかった。今そのバッヂに語りかけても声が返ってくるのは、この三人のバッヂからとキーツやイフェルくらいのものである。
 ここに至ってようやくアルティがはっと何かを悟ったような反応を見せた。その反応にツァイトは頷き、そしてザーゲンに向きなおす。
「あんたはさらった二人を売る際に冒険者ギルドの者だとばれないように、あらかじめバッヂを奪っておいた。その売り物がギルドの冒険者だと判れば、取引の相手もその買い取る手を出し渋るだろうからな。ギルドの背後には王国という後ろ盾がついているのだから迂闊に手は出せない」
「さっきから何度も言わせるな。私は人身売買など行っていないと言っているだろう」
「ならば」
 ツァイトが挟んでいたバッヂが淡く光り出す。それを口元に近付けていった。
「ここに何かを語りかけても、部屋のどこからか声が聞こえるなどということはないな?」
 既に三人のバッヂからはツァイトのテノールの声がぼそぼそと漏れている。受信側に拒否権はなく、それをシャットダウンする方法は送信側から一定距離以上離さなければならない。もっとも、その一定距離というのは一つの街の直径ほどもあると言われている。
「そんな訳があるわけないだろう」
「ならば、試しに失礼」
 そしてツァイトは口に触れるか否かという距離まで輝くバッヂを近付けた。
「イフェル、ウィルア、聞こえるか?」
 今度は三人のバッヂからはっきりと声が聞こえた。小声よりも少し大きいくらいの声量で、サーと小さな雑音が混じりながらも全く同じ声が響く。その声はほんの一瞬のタイムラグを置いてバッヂから同時に発せられる。
 その声の音源はツァイト本人の口と三人のバッヂだけ――ではなかった。
「な――――」

 声は、もう一箇所から聞こえた。

 ザーゲンの座っている椅子のすぐ側――目の前に備えつけてある大きな机。その引出しの中から鈍くて低い誰かの喋り声が発せられていた。
「そんな馬鹿な!」
 ザーゲンは驚き、慌ててその引出しを大きく開け放つ。
 ――そこには紛れもなく、二つのエンブレムが存在していた。
 第三手が成功した。
 ツァイトが念の為にもう一度二人の名を呼びかけるが、再びそのエンブレムからは一瞬のタイムラグを置いて声が発せられる。
 もはや、ザーゲンの顔に笑みや余裕の表情などありはしなかった。どこまでも驚愕に満ちた表情が落ちていた。
 ツァイトはなんの感慨もなく無表情でそれを見つめていた。そんなこと、まるで当たり前だとでも言うかのように見下ろしている。
「確かに一人からはバッヂを奪った。それはこんな所に仕舞わずにもっと別の棚へ隠したはず……いやそもそも、もう一人には逃げられたんだ。それなのに何故……何故……」
 ぶつぶつと呟くザーゲンの言葉は自らを省みてどこに穴があったのか、どこに落ち度があったのかを懸命に探っているようだった。この男はまだ判っていないのかと、ツァイトは溜息をつく。
「あんたが犯したミスはそんなものではない」
 ツァイトの言葉にザーゲンはぴくりと、活力を失った片目だけ向けた。死人のような瞳。
 哀れな。
 そしてツァイトは静かに最後の一手を押し出す。
「今日バッヂをそこに仕舞ったのはあんたのミスじゃない。あんたが道を踏み外したのはこの悪行、人身売買を始めたその時だ」
 ――チェック。
「貴様……まさか私をはめたか」
 ゆらりと立ち上がるザーゲン。その言葉に冷静さなどなく、ただ怒りと憎しみが込められていた。
 ゲインが一歩前へ進み出る。ツァイトはもはやそれを制止する事はせずその様子をじっと見ていた。哀れな貴族の――商人の結末を。
「僕はこんななりをしていても騎士だ、今の証言を聞き捨てる事は出来ない。首都プロンテラの詰所まで同行していただき、これまでの顛末を全てお聞かせ願う」
「くっ……」
 刀を抜き放ったゲインはゆっくりとザーゲンの元へと歩んで行く。
 焦りの表情に満ちたザーゲンは机の上に用意されていた鈴を咄嗟に掴み、ちりん、と無造作に鳴らした。
 閉まっていた部屋の扉が大きく開け放たれた。

「くそ、やっぱり隠れていたか!」
 人が二人ほど通れる大きな扉から、何人もの男が駆け込んできた。メイスや短剣を握った男たちが部屋の中をぐるりと囲み、見境なく体当たりを仕掛けてくる。
 そんな寄せ集めの傭兵の突撃などゲインやシュウの前では無力であったが、ツァイトとアルティにはやや荷が重かった。ツァイトはしきりに防護壁を作り出しては必死に回避を試みて、アルティは重い斧で一方的に押されていた。
「死人に口なし。全員殺せば問題はないだろう?」
 呵々と大声で笑うと、ザーゲンはその戦場を悠々と傍観するつもりなのか椅子に座りなおした。何が可笑しいのかくくくと笑い、ぶつぶつと独り言を呟いている。
 ――狂っている。
 ゲインが峰打ちで、シュウがチャージアローで気絶させていくがそれよりも圧倒的に数が多い。相手の攻撃を全て避け切る事は不可能であるし何より魔力と矢、そして体力が持たない。
「アル!」
 ゲインの叫び声に気付いてアルティの方へ目を向けると、既に腕を捕まれて身動きが取れない状態で居た。ツァイトがホーリーライトを詠唱しその男を弾くも、体力の切れたアルティに逃げる術はない。走る事が出来なければ動きを機敏にする魔法も意味を為せない。
 ツァイトの背にもメイスの強烈な一撃が加えられた。飛びそうになる意識を引き戻し、かがんだ体勢から足払いを仕掛ける。その相手を転ばせたはいいものの、その間にまた新たな敵が増える。短剣で切りかかろうとしてきた男をゲインが峰で薙ぎ、悶絶させた。
 キリがない。シュウは軽やかなステップで自らの攻撃をかわしアルティの近くに居る男を手当たり次第に射ているが、矢筒に収められている矢の本数がもはや残り僅か。ゲインもいつのまにかコートを投げ捨てていて、俊敏な動きで着実に数を減らしているものの回廊から湧いてくる男たちの数は留まるところを知らない。
 既に十数人もの男が紅い絨毯の上に倒れている。誰一人として絶命した者が居ないのは奇跡とも言うべきではあったが、その分ツァイトたちの疲労は既に限界へと達していた。
 視界の端に映ったアルティへ短剣が向けられていた。対する少女は既に気絶していてそんな小さな刃を避けることすら叶わない。
「アルティッ!」
 数が、力が違い過ぎた。
 ここまで来て敵が放った総攻撃はポーンだらけとは言っても無尽蔵に補充されるその手駒の前では、たった四つの駒で対処する事など出来ようはずもなかった。戦いに決着をつけるが為に敵陣に深く切り込み過ぎたのだろう、チェックなどでは甘い。もっと早くチェックメイトを仕掛けなければならなかったのだ。
 ザーゲンが笑っている。勝利に酔いしれているのか、自らに酔いしれているのか。
 どちらにせよ、ツァイトには同じ事だった。
 もはやこれ以上、打つ手など――

「ピイイィィィィッ!」

 正面に嵌められた大きな窓の外、少しだけ雲のかかった満天の空から甲高い鳴き声が響く。聞き覚えのある、しかし思い出せないその声の主は突然――窓を割って部屋に侵入した。
 巨大なガラスへ勢い良くぶつかり、その嘴で粉々に砕き散らした。ガラスも、その戦場の空気も。
 舞い散る無数のガラス片、合唱する男声の悲鳴。
 ツァイトは自らが殺されそうになったその場所が、突如として混沌に満ちた地獄へと化す瞬間を目の当たりにする。降り注ぐガラスの雨が男たちのほとんどを戦闘不能にまで陥れた。
 身体中に突き刺さった者、利き腕に浴びた者、顔面に被った者。
 皆一様にその突然の出来事に恐れおののき、気絶するか腰を抜かすかした者しか見当たらなかった。
 シュウはアルティの側に駆け寄ってロングコートで身を守り、ゲインは咄嗟にガラスの降り注ぐ範囲外に逃げていた。ツァイトはまだ残っていた防護壁に守られ無傷。お陰でその部屋の中で起きた惨劇をまざまざと見せられる羽目になってしまったのだが。
「あれは……」
 シュウが部屋に入った侵入者を見つめる。自らの相棒よりも一回り小さい鷹。それは、どこかで見た事のある鷹だった。すぐさま立ち上がり、割れたガラス窓の外を見つめる。漆黒に塗りつぶされた暗闇の中、一人の人間がどこかの家の屋上に立ってこちらを見つめているのが見えた。超人的な視力を持つシュウにしか見る事が出来ないその影。フェイヨンの民族衣装に身を包んだあの女性――どうしてここに――
「シュウ、ゲイン、無事か」
 ツァイトの声にシュウとゲインが振り返り、無事だという合図を返す。よろめく身体を無理矢理立たせて、ツァイトは気絶したアルティの元へと歩み寄った。辛うじてあと二、三回分のヒールが放てる程度は魔力が残っている。致命的な外傷は全く見られないということにまずは安堵をした。
 部屋の中をぐるぐると飛び回っていたあの鷹は既に夜陰の中へと飛び去り、遠くに見えていたあの女性の姿も消え失せていた。
「あの鷹はシュンじゃなかったけど……何にせよ助かった」
 ゲインが刀を収め、ようやく周囲がしんと静まり返っていることに気が付く。あれほど湧いてきていた男たちは扉の外からきれいさっぱり居なくなっていた。
 机の下には自らを抱きしめて小さく震えているザーゲンの姿があった。口元をわななかせてぶるぶると呟いているように聞こえる。ガラスの雨、その惨劇に恐怖したのか目の焦点が合っていない。
 仕舞った刀を再び抜き放ちゲインはザーゲンの眼前に構える。気付いているのかいないのか虚ろな表情でいて何も反応は無かった。小さく溜息をつく。茫然自失とした人のなれの果てなど、こんなものなのだ。縄にくくって連行するまでもなく、ザーゲンに抵抗の意は感じられなかった。
 ツァイトはアルティの応急手当とヒールを終えると、ゲインに目配せする。
「ゲイン、この件は――」
「判ってる、公安の手柄になるってことだろ。……不本意だけど、今回は仕方ない」
 ツァイトは誰にも判らないくらい小さく頭を下げた。公安に恩を売ろうだとか縁を作っておこうだとかいった考えは未だ誰にも話していない。ツァイトが勝手に決めて勝手に引き受けた依頼に付き合ってくれたこの三人には本当に感謝をしたい。特に、ゲイン。
 騎士が公安に従うなど、恐らく最大の屈辱だろう。半ば強制的とは言えそれを甘んじて受け容れてくれたゲインにはありがたく思う。
 シュウはアルティを抱きかかえた。治療は終わっても気を失ったままである彼女を無理矢理叩き起こすのはやはり憚られる。気を失っているとは言え、小さく寝息を立てている姿を見れば自然と笑みが漏れてしまう。普段から饒舌で気の強い少女も眠ってしまうと可愛らしいものだった。
 気を緩めていたその時、回廊の奥から大勢の足音が聞こえた。
 ゲインが身構えるがツァイトはそれを制する。足音は走る事なく、ゆっくりとこの部屋に近付いてきていた。それも、規則正しく。
 先頭を率いていた長身細身の男が開いた扉の区切られた視界に入る。オールバックの黒い髪に銀縁の眼鏡、そして礼服(フォーマルスーツ)に身を包んだその男は、数時間前に別れたばかりの王国公安維持局の局長。
「……アナエル・プリンシパリティ」
 率いていた連中はアナエルが指示を出すと屋敷内に散っていき、てきぱきと手際良く検分を始めた。指示を出し終えるとアナエルとその横に居た体格の良い僧兵の男が残る。何の抵抗も感じずに部屋につかつかと入ってくると、アナエルは僧兵の男に指示を出してザーゲンを担ぎ上げた。
「ご苦労だった、『黄昏に染まる翼』の諸君。君たちの活躍は素晴らしかったよ」
 眼鏡を押し上げて、ツァイトを見下ろす。その目には不快感を呼び起こす嫌な笑顔があった。
「アナエル……あんたは」
 ツァイトは呟くがすぐにそれは制止させられた。アナエルの手によって。
 すかさずアナエルはツァイトの耳元に囁いた。
「この場で仲間を失いたくなかったら、余計な詮索はしないことだ」
 ――警告。
 背筋が冷たいものが走るのをツァイトは感じた。そして直感した。
 先ほどこれと同じ事を、アルティは言われたのだ。邸宅へ向かって走っている際に言わんとしていたことはこれなのだ。
 すっと通り過ぎたアナエルを振り返ると、先ほどの男と何か話しているようで「モロク支部に……」だとか「この男はオミーナに託して……」だとか喋っているのが聞き取れたがそれ以上は判らなかった。ザーゲンの処遇について話しているのだろう、そこから先にツァイトたちの関与出来る余地はない。
 ゲインもああは言ったもののどことなく不満そうな顔をしているのが感じられた。シュウはぼんやりと公安の二人のやり取りを見つめて、何を考えているのか判りにくい表情をしている。
 皆それぞれに公安を信用してなどいない。それはツァイトにも、よく判っていた。
「……ああ。そうだ、ツァイト」
 いつのまにか呼び捨てにされていたことに少しだけ違和感を感じながらも、聞き流して声のした方を見ると、アナエルは懐から小さな筒を取り出して放った。それを受け取ると筒の中で、からん、と小さな金属のような音がする。
「報酬の百万ゼニーの小切手が入っている。カプラ社に持っていけば換金してくれるだろう。それと返却物もそこに入れておいた」
 ツァイトはすぐに中を開けて確認する。中から出てきたのは公安の象徴である虎を象った金色の判子が捺されゼロが六つ並んで書かれている羊皮紙と、見慣れたエンブレム。
「依頼完遂だ。何かあったらまた宜しく頼む」
 ツァイトは返事をせずに視線だけ返す。肯定も否定もせずに、ツァイトはコートを羽織って部屋から退出した。ゲインとシュウも無言であとに続く。

 やり切れない思いを残して回廊を歩む。忙しない公安の局員たちとは違う、のろのろと重い三人分の足音が響いていた。ゲインは俯き、シュウは腕の中のアルティを見守り、ツァイトはいつもの無表情で足を進める。
「これで、いいんですよね」
 シュウがふと立ち止まった。ゲインはシュウを横目で捉える。
「スペサルティンの悪行は公安によって暴かれ人身売買のルートもまた一つ白日の元に晒される、というシナリオか……上手く出来てるもんだよ」
「違う」
 ツァイトはゲインのその言葉を否定した。先頭を歩いていたツァイトは振り返ることはなく、背に二人の視線を感じる。
「今回の依頼は、そんな単純なものではない」
「何が違うんだ、ツァイト?」
「……今は話せない」
 ゲインが周囲を見渡すと局員たちが東奔西走している。確かにここで会話をすれば全て丸聞こえになってしまうことだろう。
「今はイフェルたちと合流しよう。話はそれからだ」
「そうでしたね、向こうが無事に会えたかどうかも確認しないといけませんし」
 ツァイトは手近な局員に牢の場所を尋ね、すぐさま言われた場所へと駆けていった。
 それぞれの心にわだかまりが残る。だがしかし今はどうすることも出来ないと誰もが悟っていた。だからここでは触れない。あの二人の件も残っているのだから、ともかく今はそちらへ向かわねばならない。
 そんなもの、ただ気を紛らわせる為だけなのかもしれない。
 何がどうなっているのか、新たに点と点を結んでいかなければならないようだ。それも、大きく方向修正して。
 ――何か大きなことに足を突っ込んでしまったか。
 ツァイトは緑の庭園から流れてくる冷たい夜風を厭いながら、暗い砂漠の宮殿を走り抜けた。



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