Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (8)

 その時、体育館内で動いているのは青年とピアノと、そしてその音を伝える宵闇だけだった。
 普段即興で弾いている楽曲よりも柔らかいタッチ。ゆったりとしていると思ったら突然駆け込むようにもなる。テンポの揺れが激しいその曲は、すぐさま体育館を柔らかいピアノの音で満たしていった。
 青年はその細い腕をやさしく踊らせ、すらりとした指で鍵盤をなでる。子守歌のようにも、葬送曲のようにも感じ取れるその楽曲を紡いでいった。
 何年も調律されておらず、ほとんどの音がはずれたまま放置されていたはずのそのピアノは、一音たりとも音程を外す事なく柔らかい旋律を奏でていく。青年が紡ぐ音はただ機械的な音ではなく、美しい響きとされる微妙なピッチのずれすら、そのピアノで表現していっていた。筐体の中に張られている弦に直接触れればそれを表現することは理論上は可能だが、しかし常識的にそれは不可能であり、青年はそんなことをしている様子ではなかった。
 譜面台に譜面は置かれていない。青年は記憶を頼りにして独自の色を込めて、その指を踊らせていた。漆黒の筺体はその指遣いに従って、初めて演奏されるであろう変奏曲を歌っていった。
 宵闇の中央に据えられた黒い筐体は、まるでその夜想曲(ノクターン)を弾くためだけに存在していたオルゴールであるかのように、美しい和音を奏でていく。
 大きく開いた蓋の中に見える弦が、月光が反射しているのか淡く光を放つ。青年が鍵盤を弾くと光の弦も細かく震え、まるで金色の麦畑のようにさえ思えた。何て言うことはない普通のさび付いた弦が、この瞬間だけは自ら光り輝いているように見えた。

 なんとなくその弦の輝きをぼんやりと見つめていた。
 輝く弦は別に驚くようなことに感じられなく、ああちょっと珍しいなというくらいに見ていた。空には当たり前のように浮かんでいる月がある。見つめていたらしばらくして飽きて、それからすぐに視線を外して手元の鍵盤へと落とした。
 指はどこかで聞いたり弾いたりしたことのあるような誰かの曲を、普段即興を弾く時のように演奏していた。それはいつ終えるとも知れない楽曲。ピアノにはもちろんのことだが、弾いている自分でも演奏の終わりは判らない。そもそも記憶力にあまり自信がないので、どこまでが即興でどこまで既存曲なのかすら、判らなくなっている。どちらにせよ青年は、普段どちらも同じスタイルで弾いているのでさして問題はないのだが。
 思い出したかのようにふと、演奏のテンポを落とす。
「あー」
 周囲を見渡して白い猫の姿を探す。するとすぐステージの端に、下へ身を乗り出したままこちらを見つめているエレナがを見つけた。少女の元へ駆け寄ろうと思っていた矢先にピアノが鳴り出したものだから、出端をくじかれたのだろう。
 エレナは放っておいてもどうこうされることはなさそうだと踏んで、ステージ下方へと視線を移す。演奏の強弱が揺れるテンポに合わせるように、視線を巡らせた。遠くへ目を凝らせば凝らすほど色が濃くなる宵闇の空間で、淡く差し込む月光だけを頼りに、あの少女の姿を探した。
 視線を巡らせると、目立つ銀色の髪がすぐさま目に飛び込んで来た。
「――――」
 少女はぽかんと口を開けて、ただ突然の出来事に驚いたような顔をしていた。そんな顔を見るのは初めてだったので、なんだか意外だった。というより、面白い。
「あー……っと」
 少女のすぐ目の前に立つ黒衣の男の剣は、少女の喉元に触れるか否かというところで止まっている。
「生きてるかー?」
 取り敢えず訊いてみる。
「――――」
 しばらく待つが、返事はない。
 わざとらしく溜息をつきながら、
「手遅れ、か……。残念だな、エレナもあんたとようやく再会できたってのになー」
「……ちょっと、勝手に殺さないでよ」
 徐々に暗くなって行く曲調は、その少女の言葉で遮られた。
「あ、生きてる」
「あんた今、判ってて言ってたでしょ」
「うん」
 青年がふっと笑うと、少女は呆れたようにため息をつく。それから観念したように、小さく笑みを返した。
 少しだけ明るくなったピアノの音を背に、少女は一歩だけ間合いをとる。意識がないのか、いまだに硬直したままの黒衣の男に向かって、素早く指先を動かしながら小さく異国の言語を発していた。先ほどから二人の間で繰り広げられた怪奇現象を引き起こしていた、あの言語と同じように思えた。
 文言によって指先がぽうと青白く光ったかと思うと刹那、生成された目に見えない何物かが男の手から白銀の西洋刀を搦め捕った。ほんの一瞬の出来事だった。
「――ッ!」
 突然の衝撃によって気が付いたのか、男は少女の次の一撃が来るよりも速く、二歩三歩と少女との距離をとった。西洋刀を握っていた右手を押さえながら、少女と正面に向かい合う。
 気付くと、少女の文言によって全ての時が動き出していた。ピアノの演奏はまだ終えていなかったが、先ほどまで凍ったかのように静止していた空気も、相対する二人も、そしてエレナも流動していく。
 向かい合う少女と黒衣の男。男の背に向かって威嚇している小さな白い猫。そして壇上からは流れるようなピアノの音色が、バックグラウンドミュージックとして奏でられていた。
「……ハ、アハハハハハ。これは一本取られたね」
 男は押さえていた手を離し、その長身をすらりと伸ばして直立した。正面には少女が西洋刀を構えているにも関わらず怯んむような様子はなく、乾いた笑いで体育館を満たした。
「魔女サンがここに帰ってきたのはそういうワケだったのか。アンタも人が悪い、こんなところに切り札(ジョーカー)を仕込んでおくとは思いもしなかったよ」
「勝てば官軍でしょ」
「ハハ、違いない。それにこれはイカサマでも何でもない、オレの落ち度だ。素直に負けを認めようじゃないか」
 男はひらひらと手を振る。しかしエレナは身構えたままで、少女もまだ西洋刀の切っ先を下ろすことはなかった。
 すると何かを思い出したのか、男はくつくつと笑い出した。
「何が可笑しいのよ」
「いやいや、これを笑わずには居られないだろう。魔女サン、アンタは以前こう言ったよな、『あいつは、私とは何も関係ない一般人』と」
「……」
「それが蓋を開けてみればどうだ、その一般人は既にこちら側の人間じゃないか。そのまま何も関与せずにいれば良いものを、アンタはその手で今、何も関係ない一般人とは呼べない場所に引きずり込んだじゃないか。ククク……これが笑わずにはいられるかい?」
 暗い体育館の中では少女の表情は良く見えない。しかし、あまり穏やかではない空気を纏っているということは青年にも推し量れた。
「魔女サン、アンタは結局この世界においては害毒でしかないのサ。こうしてまた一人、こちら側に引き込んじまったんだからな」
「それで? だから私もあんたたちに協力しろって言うわけ?」
 少女は切っ先を男に向けたまま、一歩だけ距離を縮める。
「あんたたち――調律師たちは律を脅かす存在を抹消し、そして律のありのままの流れを体現しようとしている。言いたいことは判るけど、けどあんたたちが実際やっていることは違う。ただの殺戮と破壊じゃない。淘汰なんて言葉を使っても、それは言い逃れの出来ない事実でしょ」
 もう一歩近づく。
「そんなあんたたちに、石は渡せないわよ」
 西洋刀の切っ先が男に触れるか触れないかという位置にまで、少女は距離を詰めていた。
「悪いけど、オレにそういう難しい話は判らないな」
 男は無感情に肩を竦めるふりだけした。
「ただ上に言われたことに従っている駒だよ、オレは。駒はあんまし考えたりしないってワケ。オレがやんなきゃいけないことはアンタを連れて帰るか、協力を拒まれたら抹消しろってことだけだ」
「あんたは……それでいいの?」
 ぽそりと呟いた少女の言葉に、男は口元を緩めた。
「ハハハッ。――まさか同情でもしてるのかい、魔女サン? さっきまで自分の喉元に剣を突きつけていた敵に同情とは、随分な余裕を見せつけてくれるじゃないか」
「別にあんたがどうなろうと知ったことじゃないわよ。たださっきからあんたの言い分に腹が立つだけ。駒だ駒だ言って、そう言ってれば何もかもが許されると思ってるようにしか聞こえないわ」
「ハッ、それは心外だね。別にそんなモノじゃないさ。オレがそうしたいからそうしてる、ただそれだけ。魔女サンにそんな言葉を吐かれるほど、オレはオレを見失ってなんかいない。アンタとオレは生まれが違えば歩んできた道も生き方も違う。それだけの話だよ。相容れないってことさ」
 少女はその言葉には何も返さず、ただ視線を男に向けたまま無言で居た。
 ふと、男はこちらを見やる。ピアノの奏でる音を数秒聞き入った後、感心したように、
「へぇ……これはまた相当な使い手じゃないか。まさかこれほどの人間が、普通の生活に溶け込んでいたとはね。お前、そのピアノは何処で習ったんだい?」
 青年はきょろきょろと周囲を見回したあと、男へ視線を返す。
「ん、俺?」
「お前だ、お前」
「母に習った。習ったってゆーか、無理矢理習わされた。まあすることもなかったから遊び道具代わりだったって感じ」
「どのくらいやったんだ?」
「物心付いた時からこっちに出てくるまでずっと。ざっと十年はやったと思うけど」
 そう答えると、男は自分で訊いておきながら別段興味も無さそうな顔をして視線を少女へと戻した。それはちょっとひどいんじゃないか。それはそれとして見ず知らずの男に何故こんなことを聞かれたのか判らなかったがまあ減るものでもないしいいかと割り切り、取り敢えず演奏を続けることにした。今の青年はどうやらバックグラウンドミュージック担当のようだったので。
「いやはや、面白いものを見せて貰ったよ。アンタといいあのピアニスト君といい、ね」
 少女が切っ先を向けているにも関わらず、男は平然とした様子でフードを目深に被り直す。
「逃げるつもり?」
「今日のところはこの辺でいいだろうと思ってね。これ以上居ても、オレに勝ち目はなさそうだ。言っただろう、素直に負けを認めるってね」
「そう」
 少女は短くそれだけ言うと、西洋刀を放り捨てた。そうして男の脇を通り抜け、エレナを抱きかかえる。
「あんたが帰ったら伝えて。あんたたちに協力はしないし石も渡さない、ってね」
「オーケイ。(はるか)に伝えておこう」
 男もゆっくりと西洋刀を拾い上げて鞘に収めると、開け放たれたままの体育館の出口へ歩を進めた。黒衣の男と少女は背を向けあったまま、互いに視線を合わせるようなことはしなかった。
「……おっとそうだ、ピアニスト君」
 体育館の外へ一歩踏み出したところで男は立ち止まった。突然話を振られるとは思ってもいなかったので、演奏が一瞬だけもたる。
「そこの魔女サンをあまり信用しすぎない方が良い」
「は?」
「魔女は魔女ってことさ。……ショパンのノクターン、良かったよ。またな」
 言うだけ言って、男は宵闇の中へ疾駆していった。外套の色と闇の色が溶け込み、すぐに見えなくなってしまった。

 言われた意味を推し量りかねてしばらく考えていたが、やおら面倒臭くなったのですぐに考えるのをやめた。
 ピアノの演奏は再び出だしへとループし、最後のメロディを奏で始める。普段よりは短い三十分程度の演奏だったが、今日はなんだか色々とあったのでこの辺で切り上げてもいいかと思う。明日が月曜日だということも考慮して。
 視界の端に影が見えたかと思いふと視線を移すと、そこには銀色の髪を纏った少女がステージ上に立っていた。
「お疲れさーん」
 そう投げやりに言ってやると、少女は呆れたように溜息を吐いた。
「……あんたの辞書に緊張感っていう文字はないわけ?」
「数年前にそのページは破り捨てた」
「それ、謹直とか銀杏とかも一緒に消えてると思うんだけど」
「あー謹直っていうのは要らないけど銀杏は欲しいな、ちょうど小腹も空いてきたし」
「そういう問題じゃ……って、聞いた私がバカだったわね」
 そんなやりとりをしているうちに、演奏は最後の一音を伸ばして終演を迎えていた。音を長く響かせておくダンパーを踏む足の力を弱めると、体育館内は瞬時に無音の空気に凍り付いていった。
 少女はエレナを下ろすと、ピアノの黒い筐体に背中を預ける。これから蓋閉めるから邪魔なんだけどと言おうと思ったが流石にそれは憚られたので、取り敢えず椅子に座ったまま伸びをする。
「あーそうだ」
 青年は思い出したようにそう呟いた。
「おかえり」
 少女はきょとんとして、こちらを見る。どうせまた溜め息でも吐いてこの状況で呑気な奴ねあんたとか言うのだろうと思っていたら、予想に違わず呆れたようにまた溜息を吐いて、しかしそれから少しだけ嬉しそうな顔をしながら、
「ただいま」
 とだけ言った。

 青年は初めて、彼女の気持ちよさそうな笑顔を見た気がした。


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