Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (9)

 深夜はもう二時を回っていた。
 別段、それほど長い時間戦っていたという訳ではなかったが、疲労は確実に溜まっている。敵地の倉庫から奪ってきた短剣が折れ、石の力を命を借りながらも危うく落とすところだったのだから当然と言えば当然だった。
 いくら本領発揮出来なかったとは言え、まさかそこまで追いつめられるとは正直思っても居なかった。今まで何人もの連中と戦ってきたが、今宵の相手は今までの連中とは比べものにならないほど律動に長けていた。身のこなしも良く精練されており、あの西洋刀の扱いも巧みで、正直本気でなければ勝つことは出来なかったように思えた。
 しかし、そこで命を助けられた。それも意外な人物に。
 少女の隣にはその意外な人物であるところの、休日にも関わらず制服を着て学校の体育館に潜入した青年が居る。体育館を出てからしばらく一緒に道を歩いているが、のんびりと夜空を見上げながら眠たそうに歩いている。時々エレナにちょっかいを出そうとしては逃げられていたりしていた。
 普通に見れば何の変哲もない――とはちょっと言いづらいが一応は一般的な高校生。しかし、少女にはただそれだけの人間には到底思えなかった。
「今日のは良かったわよ」
 不意に、青年に向かってそう言い放つ。
「何点?」
「九十点は固いわね」
「そっか、じゃー記録更新だな。今までの最高が八十三だから、随分上がったな、うん」
 言葉の割にそこまで喜んでいる様子はなかった。かと言って別に落胆している訳ではなく、これが彼の素のようだった。
「あんた、さっきのああいう演奏って意図的に出来るわけ?」
「んー?」
 真夜中の体育館での戦闘。驚かされたのはあの黒衣の刺客だけではなく、むしろこの青年の方にこそだった。
 青年が弾いたピアノの演奏――戦闘の真っ最中だった黒衣の男と少女の二人の動きを完全に停止させ、短い時間だったが意識すらも奪った。そして楽曲に含まれる何らかのエネルギーの作用で黒衣の男を退かせるまでに至らせた――それは、少女が戦闘中に行ったものとは全く毛色が異なるとはいえ、紛れも無く「律動」だった。
 律動とは世界の法則でもある「律」の流れに沿いながらもそれを書き換えて、通常では考えられない現象を引き起こすことの出来る技術である。川の流れを少し遮って波に変化を起こさせるように、一定の法則に従って律に変換命令を下せば、何もない空気中に火を起こす程度のことは容易い。高度な使い手ともなれば天変地異を具現化することも可能とする――それが、律動。これを行うにはそれなりの手ほどきを受け、相応の訓練をする必要がある。
 しかし、「この世界」においては異なる。律動を行使できる者はごく限られており、そもそも世間一般にはその存在すら知られていない。この世界における律動は魔法だとか超常現象だとか呼ばれており、誰も彼も一種の伝承や夢物語、怪談程度にしか捉えていない。
 そこに起きた現象を、科学という仮想概念のみだけで無理矢理曲解する――これが、少女の見てきたこの世界の「常識」だった。
 そんな世界において律動を意図的に行使するというのは、少女にとってにわかに信じがたかった。この世界の常識を越えた現象――律動。それを行使した。それもこんなただの高校生が、だ。
「あー、演奏を聴くと思わずこっちに気を取られちゃうとか席を立って帰りたくなるとかそういう演奏の仕方って意味なら、まあいつでも出来るかな」
「どういう演奏よ、それ……」
「あんたたち二人は無音で戦ってただろ。そこに唐突に曲が流れれば、こっちに気を取られる。それから有名な曲に敢えて嫌な響きの不協和音を混ぜつつ、でもつい耳が行っちゃうようなメロディを演奏して……あとはそれの応用応用って感じで」
「さっきの、まさかそんなのでやってみせたの?」
「ん、まあ」
 青年の言ってることは判らないでもない。しかしそれは、ただ純粋に音楽の持つエネルギーみたいなものだ。世界を書き換えるほどの意識的操作をしているわけではなく、別に難しいことをしているわけでもない。決して律動とはほど遠い、感覚的な話のように思われた。
「あんたみたいに氷を飛ばしたり床板を腕にしたりっていうわけわかんないのはともかく、ああいう律動なら簡単に出来るって」
「簡単に出来るって、そんな風に――」
 そこで青年の言葉の中に何気なく表れた単語を、少女は聞き逃さなかった。
「あんた、律動って何だか判ってるの?」
「まあ、人並み以上には?」
 なんで疑問形なのかと訊ねようと思ったが、そんなことよりもこんな高校生が律動という言葉を平然と使うことに、少女は再び驚かされた。存在が知られてもいない律動の名を知っているということに。
 少女が驚いていると青年はうーんと唸りながら立ち止まり、足下に転がっていた小石を拾い上げる。それをすぐ脇の塀の上へと置いて、数歩距離を取った。
「律動って、こーいうのだろ」
 何をする気なのか少女が訊くよりも早く、青年は指をパチンと鳴らした。

 ――その音が鳴るや否や、塀の上に置かれた小石はざあっと粉々に砕け散った。

「――――ッ?!」
 宵闇の中では何が起こったか判りづらかったが、目の前の塀には粉々に砕かれた小石が確かにある。
 自然に割れたのではない。たった今、青年のスナップによって砕かれたのだ。
 青年が今行ったのは、確かに律動だった。
「あんたそれ、どこで教わったの」
「ん、気付いたら出来るようになってたけど」
 目の前の律動は信じられても、流石にそれは信じられない。
「あんた、それ本気で言ってるの? 律動ってそうほいほいと使えるようになるようなものじゃないのよ。普通は何年も勉強して練習して、それから少しずつ実践をこなして使えるようになるの。それを気付いたらできるようになってただなんて、そんな馬鹿な話があるわけないじゃない!」
「いや、そう凄まれても本当だしな……」
「それにインストルメント・デバイスもなしに律動を行うだなんて。石持ちの人間でもないと出来ないはずなのに……」
 青年は不思議そうな目で少女を見る。
「? いんす……何?」
「インストルメント・デバイス。共鳴律動装置といって、私が使ってた短剣とかあの男が持ってた剣なんかのことよ。大抵刃物か何かの形状をしてるんだけど、普通はこのデバイスっていうものがないと律動は起こせないものなの。聞いたことない?」
「よくわかんないけど、見たことも聞いたこともない」
 眠そうな顔をしたこの青年はごく自然に受け答えをしているが、事実とは信じ難いことが多い。ただの一般人が修練もなしに律動を意図的に操れるということに加え、インストルメント・デバイスを知らないとまで言う。はいそうですかとは、流石に受け入れ難い。ここで嘘をつく理由は察せられなかったが。
 少女はこちらの世界に来てから今まで、何人もの律動の使い手を見てきた。しかし石持ちの人間ならばともかく、インストルメント・デバイスなしに律動を行使した者は他に誰一人として居なかった。
 仮にあの体育館のピアノがそうなのだとすれば、少女を助け男を退けたのは説明が付く。しかしそうだとしても、たった今目の前で小石を砕いてみせた律動の説明はつかない。起爆剤とも言えるインストルメント・デバイスもなく律動を行使できるというのは、例えるなら何も使わずに無風の水面に波を起こせるようなもの。そんな反則技を目の当たりにしたとはいえ、少女も容易には信じることが出来ないのは当然のことだった。
 その他に、この反則技を可能にする要因として考えられるのは――、
「あのさー」
「何?」
 呼ばれて気付くと、青年は既に随分と先の方を歩いていた。エレナはというと少女の足下につかず離れずで座り込んでいる。
「俺、明日学校あるからさー。先に帰って寝てもいい?」
 向こうの方に手をひらひらと振っている無神経で無頓着な高校生が見える。
「あのね……私は話の途中なんだけど」
「俺は早く寝たい。眠くて死ぬ」
「そのくらいで死にやしないわよ。ていうかあんた、女の子一人置いて先に帰るとかよく平然と出来るわね」
「だって俺が居なくてもあんた平気そうだし。それに俺が居たところで何も出来ないじゃん」
「こういうのはそういう問題じゃない……ってああもう、そうじゃなくてっ」
 完全にあの青年のペースにはめられている。落ち着け、私。
 何の変哲もないただの高校生が、インストルメント・デバイスもなしに律動を行使する。そして連中の仲間でなく、また別の組織に属している様子もない――これだけの素質を持ちながらも完全にフリーというこの状況を、あの連中が見過ごすはずがない。
 少女はずかずかと青年の側へ歩み寄る。
「あんた、さっきの連中――調律師たちに狙われるわよ」
「んー?」
「真面目に聞いて。あんたがどうして律動を知っていたり行使できたりするのかは知らない。けれど、これだけは確かよ。あんたは連中から見たら喉から手が出るほど欲しい、特異な逸材なの」
 連中は律を乱す存在を抹消する。しかし律を乱す者というのは大抵、それ相応の能力を持っていることが多い。すなわち、律動を扱える者が多いということ。その存在を抹消するくらいなら、自分たちの駒として引き込んだほうが役に立つ。あの調律師と名乗る者たちは、今もそうやって勢力を伸ばし続けている。
 連中にとって人間というのは三種類しか居ない。何も知らずに平和に暮らしている一般人か、自分たちに有益な仲間か、もしくは障害となる敵かだ。
「連中に目を付けられた者は弱みに付け込まれて屈服させられるか、もしくはそれを拒んで抹消される――あんたはその対象になりうるの。さっきの演奏は、連中にその能力を見せつけるには十分すぎる律動だったのよ」
「……」
 黒衣の男が放った言葉と表情は、まさに極上の獲物を見つけた時のそれ。あの素振りからも、この青年が連中の標的とみなされたのは察して余りあることだった。
「これからあんたは昼夜、連中に見張られ続ける。連中はどんな姑息な手を使ってでもあんたを引き込もうとするし、そしてそれを断れば命を狙われることになる……私のようにね」
 少女がそう言い終えると、青年はぼんやりと少女の方を見たまま固まっていた。
 いきなりこんなことを言って理解しろというのは無理がある。しかし命を狙われるようなことになりうるのだから、そういった事実は知らせておくべきだろう。
 青年は硬直したまま、ずっと黙り込んでいた。少女の言葉を反芻しているのだろうと思っていると、
「……んがっ?」
「ああもうっ、話の途中に立ったまま寝てんじゃないわよ!」
「いやだって話長いし眠いし……ふわあー」
 今夜すぐに連中が接触してくるとは考えにくいが、しかし呑気にあくびなどしている場合でもないのだ。この青年の緊張感のなさには、流石に眉をしかめるしかなかった。
「はあ……ホント、どこまでもしょうがない奴ねあんたって……。巻き込んじゃったから心配してるこっちが馬鹿馬鹿しくなってくるわよ、もう」
「はへ?」
 その抜けた反応に盛大に溜め息をついてから、少女は青年の正面に立つ。
 秘めた能力をひけらかすことなく普通の生活を送っているが、その実は自分自身にとてつもなく無頓着で関心なんかこれっぽっちも持たず、他人のことも割とどうでも良さそうな目で見ている本当にどうしようもない奴。どこかの誰かさんとはまるで正反対の性格。
「あんたと一緒に行動して、当分は連中から守ってあげる」
「……はい?」
「二度も言わせないで。責任を取ってあげるって意味よ」
 凄まじい資質を持っているとはいえ、所詮はまだ会ってから間もない赤の他人。互いに名前も知らない仲。責任だの何だのというものは放っておいて、本当はこんな人間は無視して先を急げば良いというのは、少女も十分に判っていた。
「私の問題に勝手に巻き込んで、あんたの存在を連中に知られることになった原因を作ったのは私なんだから、その責任くらいは取ってあげるわよ。私のせいで死なれたとなったら、私自身後味が悪いし」
 正直に言えば、この青年に少しだけ興味が湧いた。かの能力と、異端の存在である少女を自然を受け入れた能天気さといい、どうにもつかみにくい性格のこの青年と、もう少しだけ行動を共にしてもいいと思った。
 この青年がどこまで律動や連中について知っているかも聞き出すことができれば、今後の活動に役立つかもしれない。あるいは、いざとなれば青年の能力を利用して連中を退けることもできるだろう。そういった意味でも、行動を共にするのは悪くないだろうと思う。
 青年は少しだけ困ったような顔をして、うーんと唸る。
「責任とかどうでもいいんだけど……それって結局のところ、具体的にはどうなるわけ? 一日二十四時間ずっと一緒に居るとか?」
「いつ連中が姿を現すとも限らないからできればそうしたいところだけど。でもあんたにも生活ってものがあるでしょ。だから私だってそこまで踏み込む気は」
「俺一人暮らしだから、別にうちに泊まってくれてもいいけど?」
 少女が言い終わるより先に、青年は別段顔色を変える事なくそう言い放った。まるで明日の朝ごはんはパンにしようかと提案するようなそぶりで。
「……は?」
「なんか無駄に広い部屋だから一人くらい増えたところでどうってことないし、別に光熱費とかも問題ないし――あ、一人と一匹か。でもまーこれまでもエレナが増えたっていっても問題なかったし、大丈夫だよ」
 具体的に何がどう大丈夫なのか判らない。それってつまるところ、
「――って、あんたそれ正気?」
「だってそのほうが楽じゃん、俺もあんたも。……あーでも、あんたにも家があるだろうからそういうわけにはいかないか」
「まだない、けど」
「じゃあそれでいいじゃん? だめ?」
 少女の提案をより最善の方法で実行するには、確かにそれが一番効率がいい。未だに拠点を決めずに転々としていた少女にとって、それなりの律動を操れる人間の元に身を寄せることができるというのは願ってもいない提案ではあった。
 しかし、やっぱりその意味するところを考えてみると素直に受け入れるのは気が引けるわけで。
 この青年は本当にどこまでも、何を考えているのか判らない。……たぶん何も考えてないのだろうけど。
「なんか、不満?」
 ――強いて言えばこの状況と、あんたの能天気さに。
 少女は観念したように、盛大に溜息を吐く。
「……はあ、判ったわよ。そこまで言うなら、お言葉に甘えさせていただくわよ」
「ん。じゃあ決まりだな」
 ずっと眠そうな顔をしていた青年はうっすらと笑みを浮かべて笑う。少女は青年に上手く乗せられているような気がして、なんだかすっきりとしなかった。
「ただし。私は食事にはうるさいわよ」
「……う」
 仕返し代わりに言ってみると、予想通りのわかりやすい反応。少しだけ視線が泳いだ。
「ごめん俺あんま料理上手くない。卵焼きとスパゲッティが限界ってとこだ」
「まあ、そんなことだろうとは思ってたけど」
 男の一人暮らしに料理は期待してない。もちろん一人暮らしともなれば料理のスキルが上がることもままあるが、この青年に限ってそれはないだろうと断言出来た。そもそも、この青年が台所でエプロンつけてせっせと料理している姿を、少女は到底想像出来なかった。かといってジャンクフードを漁ってるという印象もなかったが。
「それじゃあこうしない? 私は宿を借りる代わりに、食事を担当する。私はそれなりに料理に自信があるから、ご期待に添うと思うわよ」
 少女自身も一人で生活していた期間は長い。加えてそれなりにグルメな味覚のお陰で、少女の料理スキルが上がっていくのは必然と言えた。
「あんたが? いいのか?」
「私だってただでずっと居座るのは嫌だから、これくらいさせてちょうだい」
 ついでにピアノ演奏のお礼も兼ねているのだがそれは言わなくてもいいと思ったので、やめた。
「んまあ、あんたがそうしたいっていうなら、それで」
 青年はそう言ってあっさりと受け入れた。別段毒を盛ったりする訳ではなかったが、そこまであっさり言われると逆に少し興醒めでもあった。
 エレナが足元で小さくあくびをする。もうそんな時間だったか。
「あんまり、嬉しく無さそうね」
「すっげー嬉しいよ。最近ほんと食事作るの面倒に思ってたし。いやほんと助かる」
「そう。そう言ってもらえるなら、こっちとしても作り甲斐があるわ」
 他の人間のために料理をするのはいつぶりだったか、もう思い出せないが。
 エレナのがうつったのか青年もひとつ大きなあくびをする。たっぷり五秒ほどかけてから「んじゃ帰るかー」と視線だけで言ってそぞろに歩きだす。宵闇の中、漆黒の学生服に身を包んだ青年の背中を見ながら、少女もそれに続いて歩きだした。エレナも相変わらずつかず離れずで、とことこと付いてきた。
 月ももう傾いていた。通学路の割には街灯の少ない道を二人と一匹は無言で歩く。
 これからしばらくこの青年の家に居着くと考えると訊こうと思っていたことも割とどうでもよくなり、エレナや青年のものがうつったのか、少女も小さくあくびをした。その様子をエレナが見ていたような気がするが、目を合わせるとすぐにそっぽを向いてしまったので判らなかった。
「あー、嬉しいっていうのは食事のことだけじゃなくて」
 少し歩いた後、青年が突然そう口火を切った。少女はいきなり言われて一体何の話なのか理解するまでに五秒ほどかかった。
「俺はまたあんたにピアノ聞いて貰えるのも、嬉しいかな」
「……」
 突然、何を言い出すかと思えば。
 そう何気ない口調で言った青年は口に手を当てて再び大きなあくびをしていた。今自分が何を言ったのか、そもそも自分が今言葉を発したということすらきちんと理解しているか怪しい。今なら立ちながらでも寝てしまいそうな青年を見て、少女は再認識する。

「やっぱり、変な奴」



 夏の終わり、異端の夜想曲と共にその邂逅はなされた。




 ――「ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2」終


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