Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (6)

 目を覚ます瞬間というのは曖昧。目が覚めた、と気が付いてもそれが夢である場合だって考えられなくはない。
 だから目を覚ました瞬間、今自分が見ているモノが夢か現かを即座に判別することは出来ない。実際にそれをそれと認識するまでは、非常に曖昧な世界に自分は置かれているんじゃないかと思わされる。最も、それがそれであると確証づける要素すら、夢か現なのか判断出来なければ意味を為さない。
 胡蝶の夢という逸話がある。二つの次元を行き来していた結果、自分はヒトであると思わせていたアイデンティティが崩れてしまう。
 結局のところ、眼前に在る物体や事象が夢なのか現実なのか、その人間がどう世界を解釈するかによって決まるのではないだろうか――


***


 寝ぼけ眼をこすりながら、どこかで会ったような少女が呟いていたそんな言葉を思い返していた。少なくとも青年にはここまで小難しいことを考えたりする思考回路はない。普段ならばまだしも、寝起きならば尚更だった。
 カーテンのすき間から入ってくる日光が眩しくて目を覚ましたものの、寝起きは最悪だった。眠気が抜け切っていないことに加えて、暑い。まだほのかに残る夏の暑さが今日は一段と増していて、適当に被っていた毛布も、知らず知らずのうちに蹴飛ばしてしまっていたようだ。ベッドの下にもみくちゃになって落ちている毛布がそれを物語っている。
 枕元に置いてある携帯電話を拾い上げて画面を見ると、無機質なデジタル時計は十一時を示していた。
 青年はそれを五秒ほど見つめた後、蓋を閉めてベッドの上へ放り投げた。
 遅刻してしまったものはどうしようと覆せるものではなく、諦めてシャワーでも浴びてくるかと思い立つ。青年がベッドから足を降ろすと、しかしそこに毛布とは違った感触の材質が裸足に触れた。
 訝しんで足元を見やると、そこには真っ白な毛玉が鎮座していた。
 その猫は、青年が目を覚ましたことにようやく気が付いたのか、身体をぴくりと震わせるとすぐに青年との間に距離をとる。特に威嚇する様子はないが、かといって警戒を解くような様子もない。
「おはようさん」
 青年がいつも通り挨拶をしても、猫はあくびをかみ殺したような表情をしてその顔をこすっている。少女と別れてから三日が過ぎていたが、青年はまだ鳴き声を聞いたことがなかった。
 青年は部屋の箪笥から着替えとバスタオルを探し出し、それを抱えて寝室を後にした。白い猫もその後に続いて、小走りでリビングへと向かう。
 テーブルにソファと、椅子が二つ。他にテレビと空調機といくつかの青い観葉植物がある程度の、こざっぱりとしたリビング。服や雑誌が散らかっていたりということはなく、しかしところどころに埃が積もっていたりもする。青年にとってはこれでも割合綺麗にしてある状態だった。
 テーブルの上に放ってあったリモコンを操作してテレビを点け、チャンネルを一通り回してからNHKに固定する。いつの間にか青年の脇にいた猫は、テレビの一番見やすい特等席へ飛び乗ってそのまま昼前の紀行番組に見入っていた。
 青年は寝ぼけ眼をこすりながら風呂場へと向かう。シャワーの温度はやや低めにとって、ゆるゆると身体を洗っていく。
 妙な少女と会ってピアノについて批評を聞いていた日々など、まるで夢想の出来事のように青年は思っていた。
 少女がいなくなった途端に平和な日常が訪れて、今でもその中にいる。昼は学校でぼんやりと授業を受け、夜は誰もいない体育館で無為にピアノを弾く。今までと至って変わらぬ生活だった。
 ただ、それ以前と違う点といえば、少女から預かった白い猫の存在だった。
 いつも青年の斜め後ろを付いて歩き、家に帰ればずっとテレビにかじりついている。一言も鳴かなければ、噛み付いたりじゃれついたりすることもない。常に一定の距離を保とうとしているような、そんな感覚だった。
 少女には猫の扱いに関して「大丈夫」などと言ってしまったが、正直なところ猫を飼っていたころの記憶などは大して残っておらず、青年はその扱いにあまり自信がなかった。自分でもこんなもので良いのだろうかと半信半疑で接していたが、何処かに逃げてしまう様子もなく安心している。
 飼い主に似るという言葉がある。確かに若干そっけなくもあるが比較的素直で、あんなに癖のある飼い主にはあまり似なかったんだなと感じていた。
 不意に正面に備えられた鏡を見る。日本国中何処にでもいそうな高校生の顔が映し出されていた。特筆すべき特徴はなく、強いて言うならば終始眠そうな顔をしている。自分の顔はあまり好きではないが、嫌いでもなかった。
 髪を軽く掻き、次に顔を洗う。
 ひとしきり汗を流し、そうして青年は、あの銀色の髪をした少女のことを思い出した。
 彼女が言った「私のためにピアノを弾いて」という要望に応えるべく、別れた日から毎晩体育館へと潜り込んでいた。何をどうやれば少女のためになるのか正直なところさっぱり判らない。しかしそれもまた練習の一環なんだろうと割り切ることにしてがむしゃらに弾いていた。結局いつもと変わらないとも言う。
 その連日の夜更かしのお陰で、今日はついに寝坊をしてしまった。鏡をもう一度良く見ると、目の下にくまが出来ているのがはっきりと判る。この調子ではいつか体を壊すかなと思いながらも、しかし青年は今夜もピアノを弾くつもりでいた。
 惰性と言われればそうかもしれない。しかしひとまずは飽きがくるまで、もしくはあの少女の酷評が再び聞ける日くらいまでなら少し無茶をしてもいいかなと思った。
「まあ――暇だし」
 体を拭いてワイシャツに袖を通し、ズボンをはく。
 今から学校に行くとなるとおせっかいな担任にきつく注意をされるのは目に見えていた。ついでにそういう生活にうるさい友人も混じって、休み時間は丸つぶれになるだろう。それを思うとうんざりしたが、しかしここでさぼっても特にすることがない。
 どうせ暇だし登校するかなと思ってリビングへ向かって行くと、軽快な電子音が近づいてきた。
 音源である足元をみやると、少女の猫が青年の携帯電話をくわえて歩いてきていた。
 青年の足元で立ち止まると、視線をあげてじっと青年を見つめる。サンキュ、と言ってそれを受け取ると、すぐに蓋を開けて受話ボタンを押す。
 よく見知った名前が画面に表示されていたので、どうせまた碌でも無い用事だろうと思い、適当にあしらっておくことにしようと決めた。
「現在この電話は電波の届かないところにあるか、電源が入っておりません。時間を置いて、またおかけ直しくだ」
「なんだ、折角例の女の子のことが判ったっていうのに、電源が入ってないんじゃ仕方がないか。それじゃ」
 電話の相手は青年が言い終わるより前にそれだけ言うと、ぷつっという短い断絶音と共に通話を切った。その後には無機質な音が受話器の向こうから響いている。
 ぼうっとその携帯を見つめてから、青年は足元の猫に再びその携帯を渡す。渡された携帯をくわえた猫は、特に嬉しがるでも嫌がるでもない素っ気ない態度でそのままソファの定位置まで戻っていった。携帯を脇に置くと、つけっ放しのテレビにまた見入ってしまう。
 猫の割にそんなにあの携帯が気に入ったのだろうか、などと思いながら台所の冷蔵庫を漁る。すぐに食べられそうなものは、ゆで卵と昨晩の残りのカレー。レタスも残っているのでサラダも作れるな、などと眺めていると、再び軽快な音楽が部屋に反響した。
 今度は待っていても携帯を届けてくれる様子もなかったので、青年は猫の脇に置かれているそれを取り上げ、電話の相手の名前を確認してから通話ボタンを押した。
「何か用?」
「さっき僕が言ったこと、聞いてた?」
 携帯の液晶画面の上にぽつりと開いている穴から不満そうな声が漏れる。少し幼さの残る、高めのトーンのテノール。その声は携帯の持ち主である青年よりも幾分か若そうに感じさせられる。
「聞いてたけど、別にどうでもいいし」
 青年はあくびをかみ殺しながら、ソファーの上で丸くなっている白い猫をちらりと見やる。面白くもなさそうな紀行番組のエンディングを見つめていた。
 携帯の向こうでは呆れたような、諦めたような声がした。
「予想通りの反応だけどね、まあそう言いなさんな。折角調べてあげたんだからさ」
「別に頼んでないし……ていうかこれから学校行くんだから、そっちで話せばいいだろ」
 頭の後ろを掻いていると、友人の呆れたような声が返ってきた。
「何言ってるのさ、ついに曜日感覚までイカれたかい? 今日は日曜だよ」
 青年が携帯を耳から離して液晶画面を見ると、確かにそこには日曜日を表わす文字が表示されていた。
 これから学校に行かなくても良いという名目を戴いたというのにも関わらず、行く気になっていた心をどこにやればいいのか、青年は複雑な気持ちだった。
 からからと笑い声が携帯の向こうから聞こえた。
「はは、相変わらず抜けてるってゆーか。ああそうだ、僕も暇だしそっちに直接出向こうか?」
「構わないけど、日曜と判ったからには俺、これから寝直すから」
「つれないなー」
「そもそも興味ない話なんだって」
 登校の必要性がないと判ると、さらに盛大に眠気に襲われた。大きなあくびをしながらリビングの椅子にどっかと腰を下ろすと、眠そうな目のまま携帯を握り直す。
「興味があるから、この前学校で彼女のことを話してくれたんじゃないのかい」
「あれは気まぐれ」
「そう恥ずかしがらなくてもいいさ、気になってるんだろう? 正直に言ってみなさいお兄さん怒らないから」
「切る」
 電源ボタンをぷちっと押す。
 しかしすぐにまた着信メロディが鳴るので、仕方なしにもう一度受話ボタンを押した。
「お前さ、あんまりしつこいと嫌われるぞ」
 友人は電話の向こうで呵々と笑う。
「少なくとも君は嫌ってくれないと信じてるからね」
「いや、生まれる前から嫌いだけど」
「はは、そう照れなさんな。君はもう僕の虜だということくらい知っているよ」
「気色悪いこと言うなよ……」
 このまま続けていると寝直すのはいつになるかわからない。そう思った青年は後頭部をかいて、ため息を吐く。
「……まー聞いてやるから手短にな」
「なーんだ、やっぱり興味があるんじゃないか」
 携帯の向こう側にいる友人がにやにやと嫌みったらしい笑顔を浮かべている様が浮かんで、青年は表情を歪める。
「やっぱ切る」
「はいはい手短にやりますよ」
 いかにもわざとらしい咳が聞こえ、先程よりもやや神妙な声が携帯から漏れた。
「『異界からの来訪者』――そして『銀波(ぎんぱ)の魔女』。どんな意味合いがあるか知らないけど、連中は彼女のことをそう呼んでるみたいだね」
 青年は顔をしかめつつも、黙って先を促す。
「僕の調べた範囲では、その名前に関すること以外は判らなかった。その他身体的な特徴以上の、すなわち出自や性格なんかのデータはなかったから、もしかすると連中も彼女のことを良く知らないのかもしれない」
 だけど、と一層声を落として繋げる。
「しかしこうも書かれていた。『石へ至る道を()りうる者』とね」
 テレビの画面では今日の天気予報を伝えていた。この地域は、晴れのち曇り。
「君が遭遇したという状況から判断しても、連中は彼女のことを躍起になって捜し回っていたというのは察して余りあるね。まあ『賢者の石』と聞けば、やつらも黙っちゃいないだろーし。逆を言えばその状況からも、彼女が重要な人物であることは間違いなさそうだ」
「……」
「まあそんな経緯で先日、ちょうど四日前の深夜だね、彼女はついに連中に捕縛されたという訳さ」
 何かをめくる音がする。恐らく手帳か何かを眺めているのだろう。
「今のところ判ってる情報はこの程度。現在彼女がどこにいるかまでは、残念ながら判らない。連中が女の子に優しくするとは考えにくい上、さらに賢者の石とくれば、相当な拷問を受けてるかもしれないね。関係ない僕まで不安になるよ」
 喋り疲れたように声の主は息を吐く。しかし口調の方はというと、大して心配そうでも不安そうでもなかった。
 ソファの上に丸まって陣取っている猫は、いつの間にか青年をじっと見つめていた。
 猫に見つめられていると青年の腹の虫は突然、飢えた犬のようにきゅうっと声を上げた。
「あのさ、」
「ん?」
「さっぱり意味が判らないんだけど」
 青年はけだるそうに椅子を立ち上がると、携帯を肩とあごの間に挟んでキッチンへと向かう。いい加減食事を作ろうと、決して大きくない冷蔵庫を開け、昨晩の残り物のハンバーグと卵を二つ取り出した。
「あのね……これ以上ないくらい判りやすく言ってるっていうのにどこが判らないっていうのさ、君は」
 今のどこが判りやすかったのか青年にはさっぱり理解できない。携帯の向こう側に居る人間よりも至極真っ当な生活を送っている青年にとっては、どれもこれも聞き馴れない言葉だらけだった。友人が言うには一度聞いたことがあるということだが、覚えていないのだから仕方がない。
 だがいつもそれを、さも当然であるかのように語るこの友人のせいで自分の方がおかしいんじゃないかと思わせられる時がある。実にいい迷惑だ。一体どこで学んだのか判らない知識を披露されても、基本的には青年の耳を右から左へと抜けるだけだった。
「全部」
「えー」
「えーじゃない。いきなり魔女だの石だの言われたって何なのか判らないって」
「む、そこら辺は一年くらい前に教えたじゃないか」
 ハンバーグは電子レンジへほうり込んで、卵は二つとも椀の中に割った。少し砂糖を加えて、菜箸で軽くとく。
「知らない。ってゆーか聞いてなかった」
「正直に白状したのは許そう。いいかい、賢者の石ってのは中世、錬金術師が――」
 この友人に悪気はないが――いやないわけでもないがこういう解説を求めると、青年にとってはあくびが出るほどものすごく面倒臭い説明をしてくれる。
「あー……やっぱいい」
 今は到底聞く気分になれないので適当に突き放す。
 あごと肩の間に携帯を挟んだまま、火をつけたフライパンの上にとき卵を敷く。じゅうじゅうと焼ける音と甘い匂いがダイニングキッチンに充満し始めた。
「やっぱり直接会って説明した方が早そうだ。じゃ、今から向かうよ」
 卵焼きが焼き上がる前に、インスタントスープの素をマグカップに入れて電気ポットから熱湯を注ぐ。
「さっきも言ったはずだぞ。来るのは構わないけど、これから朝飯食べてすぐ寝るから来ても無駄足だって」
「起きてる気は」
「ない」
「食べてからすぐ寝ると太るよ?」
「太らなければいいんだろ」
「つれないなー。けち」
「……飯食うから切るぞ」
 ハンバーグが暖まったことを示す軽い電子音が部屋に響く。前日にスーパーの惣菜コーナーで買っておいたものでも、いざそれを目の当たりにすると空腹感が一気に加速するというものだ。青年も食事は暖かいうちに済ませてしまいたかったので、その旨を伝えて返事を待たずに電話を切った。
 携帯電話をソファへ放ると、一度バウンドして猫の脇へと着地した。猫はさして驚いた風も無く、ちらりと青年を見ただけでまたテレビへと視線を戻す。今は丁度、昼のニュースをやっていた。どこかでコスモスが見ごろだとか交通事故だとかいった内容が報道されているだけで、特に目ぼしいニュースはない。
 暖まったハンバーグや決して美味しそうだとは言えない卵焼きを皿に盛り、それから白米を二人分盛る。青年は一方の茶碗を食卓へ置き、もう一方の茶碗と作った卵焼きの三分の一を盛った皿を、ソファの目の前にある磨りガラスのテーブルの上へ置いた。
「今日は電話しながら作ったから、形よくないけど」
 誰にともなしにそう呟いてから、青年は食卓の席に着く。
 青年が卵焼きに箸をつけると、猫も目の前に置いてあった皿に口をつけた。これまで通り一言も鳴かず、ただ黙々と貪っていた。
 不格好な卵焼きを青年も口へ運ぶ。砂糖もいれずに作ったそれは甘くもなく、しかし醤油をかけるとそれなりに美味しく食べることができた。



「ねむ……」
 そう呟いて青年は、ステージ脇の階段を一段一段踏み締めるように上る。
 曇りがちな空の合間から見える月をぼんやりと眺め、誰もいない舞台の上で大きなあくびを披露した。普段が眠くないというわけではないが、今宵は一層眠たく感じた。
 黒光りする筺体の前まで来ると、青年が意識せずとも自然に蓋を持ち上げていた。四日も連続で通っていれば身体が覚えている。てきぱきともだらだらとも言い難い微妙な速度で、演奏会の準備は進んでいった。
 いつも足元にちょこんと居る真っ白な猫は、青年の体重で軋む椅子の音を確認するやいなや、ひょいと譜面立ての横に布陣する。青年は楽譜など用いない。そのためか、気付けばこの猫の定位置になっていた。
「魔女の飼い猫、ってことはエレナは使い魔ってとこか」
 普通使い魔と言ったら黒猫と相場が決まってるのだと、何処かの漫画だか本だかで読んだことがあったのを青年は思い出した。しかし白いライオンがジャングルを駆け回ったりするのだから、清潔そうな白い毛をした使い魔が居たっておかしくはないだろうなどと、眠さのお陰か妙に変な思考回路が働いていた。
 青年の視線に気付いてか、その猫は鳴き声など一切上げずに青年を一瞥したが、しかしすぐに丸くなってしまう。
 あの少女の代わりに自分のピアノを聞いていてくれているのだろうか、などと青年も思ってはみた。しかしそれにしては飼い主よりも素っ気なく、いつもこうして丸くなっているだけでは聞いているのかさえ判らない。
 今もひとつ小さなあくびを披露している。
「まあ、なんでもいいけど」
 それだけ言うと、いつものようにウォーミングアップを始める。手のひらを開閉し手首を軽くほぐして、鍵盤の上に指を構える。
 指先が白鍵に触れる瞬間、体育館内に轟音がこだました。
「?」
 青年がその音源の方を見やると、そこは鍵がかかっているはずの正面扉。大勢が同時に通れるよう作られた大きく重い引き戸は、轟音を発しながら宵闇に向かって大きく口を開いたのだ。
 青年の脳裏に、あの少女と出会った夜がフラッシュバックしたのは自然なことだった。
 体育館内を照らし出す明かりは、ゆるい月光のみ。開け放たれた扉から少しだけ視線を下げると、ぜいぜいと息を切らせた人影がそこに立っていた。
 その足元には白い猫が駆け寄っている。いつの間にピアノの上から移動したのかは判らなかったが、確かにあの猫は青年が数日共に暮らした猫だった。
 耳には玉の入っていない鈴をぶら下げて、人影のことを心配そうに見上げている。
「エレナ……」
 その人影はしゃがみこんでその猫を抱いた。猫は嬉しそうな素振りも見せず、かといって嫌がることもなく彼女に寄り添う。
 しばらくそうしていた後、人影はステージに向かってゆっくりと歩きだす。
「今日の演奏会には、間に合ったみたいね」
 少女は息を整えながらそう言った。
「どのくらい上手くなったか楽しみにしてたのよ」
「そりゃどーも。でも残念ながら、全然変わってないと思うけど」
「そう? まあ聞いてみてから判断するわよ」
 少女が壇上に上がると、青年の位置からも顔色が伺えた。数日ぶりに見た少女の顔はどこか懐かしく、しかし以前よりも少しやつれているように見えた。
 彼女は定位置に腰を下ろすと、決して軽くはない咳をした。
「……平気か?」
「ん、大丈夫」
 それだけの短いやり取りの後、青年は鍵盤の上に指を走らせ、運指の準備運動をする。
 低い音から高い音へ。次に逆を。その指遣いすらがまるで一つの楽曲を奏でているかのように、ピアノは滑らかな音を紡いでいった。普段よりも幾分気持ちの良いリズムで指は舞う。軽快とは程遠いが、しかし心地よく耳に馴染む音を体育館に反響させながら、数分後にその前奏曲(プレリュード)は閉めくくられた。
 ほっと一息をついて、首をこきこきと鳴らす。手首を軽く振ってほぐし、さて本番に移りますかと思ったところで、視界の端で少女が立ち上がっているのに気が付いた。
 少女の視線は青年ではなく、広い体育館の先を見つめている。その先にあるのは開け放たれた扉があるだけ。
「上手く撒いたと思ってたんだけど、どうやら勘のいいのが一人いたみたいね」
 少女は身構えるでもなく、ただ拳をぐっと握り締めていた。
 少しの逡巡のあと、少女は視線だけを青年に向け、
「あんたは舞台袖に隠れてて」
「は?」
「邪魔だから隠れててって言ってるのよ」
 足元で身構えていた白い猫を伴い、ステージ下へと飛び降りる。そのまま正面扉の方へ駆けようとして、しかしすぐに足を止める。
 見れば扉の前には、黒衣を纏った長身の男がゆらりとたたずんでいた。
「まさか、またここへ戻って来るとは思いもしなかったな」
 男はそれだけ言うと、黒衣の内側から西洋刀を抜き放つ。
 いきなりあからさまなのが出てきたな、と青年が思っているうちに、少女は懐から無骨な短剣を取り出して男との間に間合いを取っていた。空いた方の手では、青年に向かってしっしと手を振っていた。
 仕方がないので鍵盤の蓋を閉める。かといって整理されておらず埃の積もっている袖へ隠れるのも億劫だったので、ひとまずは二人を見守ることに決めた。
「念のために訊いておくけど、オレたちに協力する気はないってことでいいかい」
 男は一歩踏み込みながら西洋刀を構える。
「愚問ね。そんなことするくらいなら死んだ方がマシよ」
「ピアノの前にいる彼と、そこのおチビちゃんは」
「あんたたった一人で、私をどうにかできるなんて思わないことね」
「……オーケイ。それじゃ恨みっこなしだな」
 黒衣の男が一歩さらに踏み出す。それと同時に、少女も床を蹴り跳躍した。


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