Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (5)

 ラの音を静かに発して、漆黒の筺体は長い夜想曲を歌い終えた。
 ん、と小さく声を出して椅子の背もたれに寄りかかるようにして大きく伸びをする。木製の椅子がきゅうっと軋む音が、聴衆の居ない空っぽの体育館に反響した。
 鍵盤の上を舞っていた踊り子をだらりと下げて、真っ暗な天井に向かって青年は一つ息を吐く。
 ここ二週間は演奏後に図々しく酷評をぶつけてくる妙な少女が居たため、演奏後にはそれをぼんやりと聞いて適当に相槌を打っていれば、いつの間にか夜が更けて帰ろうという気にもなった。
 しかし、今日はその相棒もまだ姿を見せていない。
 彼女と出会う以前はずっとこうだったはずなのに、あの時は演奏後に何をしていたのかすっかり忘れてしまった。この空虚な体育館を見つめて何か感慨にふけっていただろうか。それともさっさと帰宅して布団に潜り込んでいただろうか。
 それすらも思い出せず、考えていくうちに段々と億劫になってきて思考を停止した。
 椅子に再び体重を預けると、再びきゅうっという間の抜けた音が響く。
 このまま帰ってしまおうかなどと考えていると、ふと視界の端に白いものが映った。青年が視線をそちらに移すと同時に、
「四十点」
 聞き慣れたアルトの声が響いた。
「さっきまではもうちょっと評価高かったんだけど、聞いていくうちにどんどん不快になってきた。今日の演奏はいままで聞いた中で一番ひどい。仕方がないから弾いてるって感じで、感情がまるで抜け落ちてたわよ」
 体育館の正面入り口のドアを開け放ち、青年の居るステージへ向かってずんずんと歩を進める。一歩踏み出すごとにぎしぎしと床が声を上げた。
 宵闇に包まれて読めなかった表情が徐々に明らかになってくる。普段と大して変わらないきょとんとした表情。
「初日の演奏はまだ聞けたけど、今日のは聞けたもんじゃなかったわね」
 だが少女を見つめていると、小さな異変に気が付く。
 腕の中に、あまり大きいとは言えない真っ白な猫を抱いていた。耳には何か金色に光るアクセサリーが付いている。
「その子があんたの探してた猫か」
 青年は驚くこともなくその猫に見入る。包まったまま動かないところを見ると、どうやら眠っているようだということが判る。
 少女は顔を綻ばせることもなく、一つ頷いた。
「ここに来る途中に見かけてね、追いかけてたら結構時間が経っちゃって」
「何にせよ、見つかってよかったじゃんか」
「うん」
 少女はステージ脇の階段をとんとんと上ってピアノの側まで来ると、先程よりももっと表情を殺した顔をして青年を正面から見つめた。椅子に預けていた上体を起こすこともせず、青年も視線だけで少女を見る。
「……その割にはあんまり嬉しく無さそうだけど」
「そう見える?」
「なんとなくな」
 白々しいなと思いつつも、青年は少女の次の言葉を待つ。
 少女は何かを逡巡している様子だった。
 視線をそらして何かを考えこむ。じっと足元の方を見やって十秒が経ったころ、少女は白い猫を優しく撫でてから、青年を見ずにゆっくりと口を開いた。
「少し遠くに行かなくちゃならなくなって」
「それはまた、突然だな」
「さっき急に決まったの。今夜のうちには発たなければならなくてね」
 青年は上体を起こして少女をじっと見つめるも、少女は変わらず視線をそらしたまま。
「こっちには、戻って来るのか?」
 なんとなしにそんな言葉が出た。
「どうかな。早ければ明日にでも戻ってこれるかもしれないし、もしかしたら戻ってこれないかもしれない」
「そっか」
 そういえば自分の方から真っ当に質問して、真っ当に返事が返ってきたのは初めてかもしれないと思う。そもそも今までさほど興味も湧かなかったというのに、今になってこんなことを訊いているというのはどういう心変わりなのか。
 長いこと居着いていた猫に愛着が湧く――そんなものなのかもしれない、と解釈しておくことにした。少なくともその解釈で大して間違ってはいないだろう。
 青年が黙っていると、しばらくして少女が「それでなんだけど」と切り出した。
「この子を連れて行けないから、あんたちょっと預かってくれない?」
「いいけど……折角見つかったのに連れて行かなくていいのか?」
「私も連れて行きたいんだけどね、この子は連れて行けないって言われたの」
 少女が顔を上げた。そこには青年が今までに見たことのないような、名残惜しそうな表情があった。その猫が本当に大切なんだなと、青年の目にはそう映った。
 特に断る理由もなく、元より邪険に断るつもりもなかったので引き受ける。
「ていうか、なんで俺なの」
「ん?」
「別に断るつもりはないんだけど。でも俺なんかじゃなくて……こういうことはもっと、頼れる友達とか知り合いとかに頼んだ方がいいんじゃ」
「そういうの、居ないから」
 青年が言い終わるよりも早く、少女はにべもなくそう答える。
 しばらくの間をおいてからようやくその言葉の意味に気が付き、青年は「あー……」と情けない声を出しながら、気まずそうに頭の後ろを掻いた。
 どんな言葉を掛けたら良いのか判らずに台詞を考えていると、しかし少女は特に気にした風もなく、
「それに、あんたじゃないと困るから」
「は?」
「ううん、何でもない」
 腕に抱えていた猫をそっと手の中に抱くと、青年へと差し出した。
 青年は慣れた手つきでひょいと受け取ると、意外にも軽いその身体を抱き抱えるように腕の中へ収める。
 近くで見るとそれなりに小さくはない猫だということが判る。何という種類の猫なのかは知らなかったが、体格や毛並みから判断するに栄養状態も良く、飼い主――少女によく懐いているんだろうということが容易に察せられた。
 撫でてあげようかとも思ったが、いきなりそんなことをやって目を覚まされても困るのでやめておいた。
 ふと少女の視線に気づく。
「あんたってやっぱり変なやつよね……猫を飼ったことがあるの? 随分と慣れているように見えるけど」
 青年は椅子に座り直して頷く。
「小さいころに実家で飼ってた。もう随分昔に死んじゃったけど」
「そう。なら私も安心して預けられるわね。……殺さないでよ?」
 少女はあまり感情のこもっていない――青年から見ると作り笑いのような笑顔を顔に浮かべていた。本人は一生懸命隠せているつもりなのだろうが、青年から見るとばればれだった。
 なんでそんな顔をするのかと問いたかったが、やめた。
「まあ、死なすようなことはしないよ。勝手にどっか行ったりしなければ」
「その時はしっかり追ってよ」
「面倒くさい」
「あんたねー……」
 はあ、と一つため息をつくと、少女はピアノを眺めて表情を緩める。
「……しばらくあんたのピアノも聞き納め、か」
 どことなく感慨深そうに言う。
 漆黒の筺体をじっと見つめて、そしてくるりと体育館の広い空間へ視線を向ける。何もあるはずのない空間を見つめて何を思っているのか、青年には判らない。
「あんたの酷評がなくなるかと思うとせいせいするけど、寂しくもあるな」
 ぼうっと少女が見つめている方向と同じほうへ視線を投げた。体育館の窓やカーテン、天井が暗い空間を閉じこめている。外からは木々の葉が擦れ合う音も聞こえる。良い月夜なんだろうな、と想像したが今日は新月だったということを思い出した。
 新月でもさほど暗くはないご時世だが、いつも空に何かが浮かんでいるということに慣れてしまうと、それも少しだけもの悲しく思えた。

 青年と少女はそうやって十分ほどぼんやりとしていた。会話もなく、具体的に何かを待っているというわけでもないが、ただ何かを待つかのように惚けていた。
 空気の粒が擦れ合い、移動する音さえ聞こえてきそうな静かな夜。
 腕の中の猫はまだぐっすりと眠っていた。待っている何かというのはこの子が起きるということかもしれないと思ったが、到底起きるような気配はない。
 上体をピアノの筐体に預けていた少女はゆっくりと上体を起こす。んっ、と伸びをすると口に手を当てて欠伸をする。それを見ていたら青年も、昼間の授業で溜まった疲れの所為か、大きな欠伸が出た。
 少女はその様子を見てくすりと笑う。今度は、作り笑いではなかった。
「あんたって、なんでピアノが弾けるの?」
「……は?」
 随分唐突な質問だった。少女ははっとして少し言い方を変える。
「あんたって、そうやってるとただのぐうたらな学生にしか見えないのに、でもなんでかピアノは上手いじゃない。それが妙に不釣り合いなのよね」
「褒めるかけなすかどっちかにしろよ……」
 心底不思議そうにしているところを見ると、やはりけなされているのだろうかと青年は思う。
「昔――こっちに出てくる前に、無理矢理習わされてたからな。面倒だからってさぼることも多かったけど、でも他にやることもなかったから結局のところ、手持ち無沙汰な時にはピアノに向かってた」
 つつ、と目の前に構えるピアノの縁を指でなぞる。なぞった部分には白い指紋の跡が浮き、指を見るとうっすらと黒い埃がこびりついていた。
「その習慣が残ってるのかわかんないけど……まあ残ってるからなんだろうな、だから今でもこうやって、夜中に忍び込んでまでピアノを弾いてる」
 黒い埃を親指でこすってもみ消すが、指紋の間に挟まったそれは完全に消すことはできなかった。
「……だからかもしれないな」
「何が?」
「あんたからいい評価をもらえないのが」
 少女はきょとんとした表情で青年を見つめる。
「そうやってただ何となしに弾いてるから、なんか味気無いっていうか、はっきりとしないっていうか、そんなんだからだめなんだろうなー。まあ、よくわかんないけど」
 青年はそう独り言のように呟いた。考えながら喋っているうちに段々とどうでもよくなってきたのもあって、最後の方になると投げやりになっている。もともとそうやって何かを分析したりするのは好きでも得意でもない。
 そうしていると、いつの間にかこちらを向いていた少女の視線に気付く。ピアノの真横に直立し、真剣な眼差しで青年をじっと捉えていた。
「じゃあさ」
「ん?」
 何処から入り込んだのか、ひんやりとした夜風が銀色の髪をふわりと揺らす。

「私が帰ってくるまで、私のためにピアノを弾いて」

 瞬間、風も時も静止したかのように二人の動きも音も止まった。。
 青年がはっとして視線を泳がせると、風は脇を通り抜けて何処かへと消え去って行った。しかし直立不動の少女の髪は名残惜しいのか、いまだにそよそよとたなびいている。
 一瞬何を言われたのか判らなかった。普段滅多に使わない頭をフル回転させてその言葉を反芻し、だが突然その言葉が出る意図や意味がさっぱり理解できず、
「…………………………は?」
 考えあぐねること十秒。喉をついて出てきた言葉は結局それだけだった。
 少女は盛大にため息をついて、呆れと落胆の入り交じった表情をする。
「……あんた深く考え過ぎ」
 顔に手を当ててもう一度ため息をついた。
「じゃ、それどういう意味」
「どうもこうも、そのままの意味よ。あんたって今まで誰かのため、いや、何かのためにピアノを弾いたことないでしょ。だったらこの際、私のために弾いてみなさいよと、単純にそういう意味」
「なんだ、それでいいのか」
 特に他に考えつく意味もなかったが、それでもいつも突飛な発言をする彼女のことだからまた何か他意でもあるのではないかと青年は疑わずにはいられなかった。もっとも、そういう言葉の裏を勘ぐるのも得意ではなかったのだが。
 何だと思ったのよと少女が訊ねてきたが、特に何も思い付かなかったと適当に誤魔化しておいた。
「まあ、考えておくよ」
「そうして。帰ってきた時に今日みたいな下手な演奏なんか聞きたくないから」
「厳しいなー」
 少女はくすりと笑む。
「今に始まったことではないし、もう慣れたでしょ」
「そうだな」
 青年もそれにつられて頬が緩む。
 少女がこれから何処かへ行ってしまってもう帰ってこれないかもしれないとまで言われても、青年には実際のところ、あまり実感は湧かなかった。少女の言葉を信じていないという訳ではなく、むしろ疑う気などこれっぽっちもなかったのだが、どうにも緊張感に欠けるこの状況がそう思わせないのかもしれないなどと思えた。
 腕の中の猫がぶるりと震える。起こしてしまっただろうかと驚いたが、そのまままた眠ってしまった。寝返りみたいなものかと解釈して安堵する。
 顔を上げると、少女は人差し指をくるくると動かしていた。
 その瞬間、一瞬だけ指先が青白く発光した。
 少女はその指先を何事もなかったかのように上着のポケットに無造作に突っ込むと、ひょいとステージ下へ飛び降りる。
 本当に一瞬のことだった。特に眩しくはない小さな光だったが、確かに間違いなく光っていたのを青年は見逃さなかった。
 その光は少女と初めて出会った日に見た光と、全く同じものであるように見えた。
 青年は今の光が何だったのかと訊こうとしたが、既に少女は体育館の出口に向かって歩きだしていた。
「……行くのか」
 訊くタイミングを逸してしまい、改めて訊くのもなんだか億劫になってそれだけ言う。
 その言葉に答えるかのように少女はくるりと向きを変えて青年を見上げる。宵闇の濃さに紛れてその表情は読めなかった。
 少女はこくりと小さく頷いた。
「それじゃ、その子をよろしくね」
 腕の中の猫をちらりと見やる。帰ってこなかったらどうするんだろうと思いつつも、たぶん帰ってくるような気がしたので訊くのをやめて「あいよ」と返事をする。
 再び身体の向きを反転させ、フローリングの床をぎしりと鳴らしながら一歩一歩離れていった。
 銀の髪がかかった小さな背中が徐々に小さくなっていく。大して広い建物でもないのに、青年には妙に遠近感を感じさせられた。大きく口を広げた鯨の中に一人突っ込んで行くような、滅茶苦茶だが必ずしも間違ってなさそうなイメージがぽっと湧いた。
 青年は椅子に座ったままその姿を眺めて、
「またな」
 と小さく呟いた。
 それが聞こえたのか、少女は片手を上げて返すと、青年を見る事なく出口を潜っていった。


***


 雲一つない新月の空を見上げていると、ふあ、と大きなあくびが出る。それにつられるかのように、腕の中の猫も同じようにあくびをした。それに気づいた青年がその様子をじっと見ていると、ゆるゆると重そうな瞼を持ち上げる。
「……よっ」
 その猫はその言葉に触発されたように、慌てて青年の腕から飛び降りた。少し離れた位置のコンクリートの上に着地すると、青年をじっと見据えて小さく身構えた。
 青年は「あー」と困ったように肩を竦める。
「そういえばお前、寝てたから知らないんだっけ。あいつ説明抜きで押し付けたな……」
 そうぼやきながら頭の後ろを掻いて、視線を降ろす。特に興味もなさそうな、しかし仕方ないなといった目付きだった。
「お前のご主人様から、しばらく預かってくれって頼まれて、別に危害を加えたりするつもりはないから、警戒しなくても……って言ったって無理だよなー……」
 青年は一人で唸った後、ため息をつく。猫を見ると少しばかり警戒を解いたように見えなくもないが、青年に猫の表情を読む特技などないので本当かどうかは定かではない。
 どうすれば良いのか考えているうちに、頭の中がごちゃごちゃしてきたので考えるのを止めた。
「……ま、とにかくよろしく、エレナ」
 青年は屈んで猫の頭を優しく叩いてから、その子を置き去りにして自宅へと足を向ける。
 猫は数秒間じっとその後ろ姿を見つめていたが、しばらくするとそれを追うように駆け出した。


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