Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (4)

 あれから二週間が過ぎた。
 体育館での閑散とした演奏会は二日に一遍くらいの割合で行われ、相変わらず奏者も観衆も一人ずつと、表面上は何の変化もない日々が続いている。
 内面的にも変化がないのかというとそういうわけでもなく、青年の演奏に対する少女の評価は着実に上がっていった。一昨日の評価によれば「八十三点」と、初日に比べればそれなりに聞きやすい演奏へと成長している。
 敷地を囲う柵をひょいと飛び降りながら少女はそんなやりとりを思い出していた。
 周囲は見慣れた宵闇。校門の側に立っている桜や杉、銀杏の木などは既に色を染め始める時期だがこの闇に包まれた世界ではその判別はつきにくい。煌々と照る街灯のすぐ側にある葉を見るに、銀杏はそれなりに色を変えてきているのだろうということだけは知ることが出来た。
 肌寒い風がさわりと頬を撫でた。じきに秋がやってくるだろう。
 体育館はいつも通り校門の斜向かいにそびえ立ち、校舎に備え付けられた時計は十二時半を既に回っている。普段ならば日が変わる前には到着しているのだが、今日は途中で寄り道をしてしまったためにこんな時間になってしまった。
 寄り道というのも、学校へ足を運ぶ道すがら「彼女」の気配を感じ取ったからだった。今までは完全に音信不通で気配や足跡すら知覚できなかったというのに、今日になって突然近くに居るような感覚がしたのだった。
 その動きは奇妙なもので、まるで逃げるようにこの地区をうろうろと動き回っていた。いくら疾駆しても距離は縮まらず、かといって遠のくわけでもなく。同じ路地をぐるぐると回ることもあった。連絡を取ろうとしても一方的に回線が遮断される。
 ――どう見ても罠よね、これ。
 彼女がこうまで素早く動けたような覚えは記憶にない。ましてや逃げられるような覚えも、
「まあ……なくはないけど」
 体育館から響いている柔らかな旋律に耳を傾けて、少女は小さく唸る。
 初めはただの偶然だった。
 たまたま彼らに追われて逃げ場を失ってこの敷地の周辺を彷徨っているところ、偶然にもその演奏を耳にしたのがことの切っ掛けだった。心地よい音楽と静かな空気の流れに身を寄せて、ただ一時(いっとき)の雨宿り程度になればいいと思っていたのが、気付けば二週間も入り浸る結果となっている。
 止めておけばいいものを、どうしてあの日に「毎回来る」などと言ったのか理解に苦しむ。そもそも自分には彼女を捜す使命があったあったはずなのに、それをおざなりにしてまでピアノを聞く必要がどこにあったのか。
「…………はぁ」
 少女は一つ溜息を吐く。
 そもそも奏者があんな変なやつだからいけないのだと思う。この世の何処に、突然の侵入者を特に気に止めるでもなく受け入れる人間が居るのだろう。自らの領域を突然踏み荒らされれば、動物だって普通は声を荒げて威嚇する。
 形は違えど人間だってそうする。少女が今までに出会ってきた人間を思い返せば、彼・彼女らは皆一様に奇異の目を向けてきた思い出ばかりが蘇る。少し常軌を逸した言動や態度を見せたり、挙句は髪の色にすら驚きを隠さないというのに。
 しかし少女に対する彼の行動はそれらとは全く違った。
 何の疑問も抱かずに――抱いたかもしれないが、それは別段気になることでもないと言った。
 ――変なやつ。
 そう、全てはそれがいけなかったのだ。あの青年が浮世離れした妙な人間だから興味を引いてしまった。少女はそう思うことにした。猫が見つからないのもあいつの所為。
「それにしても、ここは」
 今はそうやって一人の人間にかまけている場合ではないことを思い出し、素早く思考を切り替える。
 校門の隙間をぬって、冷たい風がそよりとスカートの裾を揺らした。
 少女は視線を周囲に巡らせる。この場所はどこからどう何度見ても、ここ二週間通い慣れた夜の学校。彼女の気配を追って辿り着いた先がここだった。
 少女が知る限り彼女がこんな場所に足を運ぶ理由などない。自分が居たような痕跡を嗅ぎつけでもしたのだろうかとも考えたが、そうすると逃げる理由がますます理解できなくなる。
 確かにこの二週間、捜索を真面目にやっていたかと問われたら頷きづらい。二日に一度はこの場所に足を運び、ゆったりと音楽に聴き入る日々を送っていたのだから。こちらに来てからあちこちを転々としていてちっとも休むことの出来なかった身体なんだから少しくらいは休んでもいいじゃない、と言いたいところだったが、こんなことばかりしているから懐いてくれないのかもしれない。
 そのことを思い返すと少女は溜息を吐く。彼女のこととなるとつい問題を先送りにしてしまう。そうやって避けてばかりいるから未だに他人行儀に接さざるをえないということを判ってはいるのだが、頭で理解していても行動に移すというのはとてつもなく高いハードルのように思える。
 避けて通るべきではない道だと判っていながらも、やはり上手くはいかないものだ。
 しかしそうして足踏みしていても問題は解決の方向に向かうはずもなく、また、今は置かれた状況が状況なだけに避けていられる場合でもない。
 再びそよりと撫でる風が、肩に掛かった銀色の髪を翻させた。
「それで、いつになったら出てくるわけ? 覗き見だなんて悪趣味だと思うけど」
 そして少女は、林立する桜の木に向かって吐き捨てるようにそう言った。

 そこに在るのは夜の闇と優しいピアノのBGMだけ――であるはずの空間に一つの黒い影がぬらりと浮かび上がった。
 その影は長身の男の姿を成し、それに続いて他の木々からも同様の影が姿を見せる。それぞれ一様に長い黒衣を纏い、初めに現れた男を除く全員が深々とフードを被っていて性別すら判別が出来なかった。
 十人ほどの黒衣の者たちは足音もなく移動し、やがて少女の周りを円形に囲む。打ち合わせでもしていたかのように円周上に並ぶと、位置に着いた者から腰にさげられていた西洋刀を抜き放ち、胸の前でぴたりと構えると、やがて微動だにしなくなる。
 その一連の動作は無駄一つ無い、軽やかな動き。少女は彼らの動きを見るのは初めてではないが、その動きは何度見ても息を呑むほど精練されている。
 そんな様子を、実際はさほど興味もなく見つめているうちに、少女と長身の男の二人だけが、黒と銀に染まった輪の中に居る形となっていた。ゆるゆると流れていた空気は一気に堰き止められ、突如密閉空間のようにぎゅっと凝縮されたようになる。
 少女は腕を組んで男を睨むように見上げた。
「相変わらず大歓迎ね。たった一人の小娘相手に、よくもまあ飽きずにこれだけの人員を注ぎ込むわね」
「アンタはそんだけの重要参考人ってことだ。結界を解析するのにも、随分と骨を折らされたよ」
 リーダーと見受けられるその長身の男も、眉一つ動かすことなく少女を見下ろす。男の口からは決して高くもなく低くもない、聞き取りやすい綺麗なテノールの声が続けて紡がれる。
「アンタはこの世界には居ちゃいけない異物だ。即刻排除しなきゃならねえ存在なんだが、同時に国内でも第一級の確保対象。こちらとしてもアンタに粗相のないよう迎え入れたいんでね、これもこっちの意思の表れと受け取って頂きたいな」
 男は恭しく口上を述べるも、頭を垂れたり跪くような様は見受けられない。何度も聞き慣れたその定型句をただ淡々と聞き流して、少女は表情を歪める。
「どこが粗相のないようによ。あの子をさらっておいて、よくそんな言葉が出せるもんね」
 一瞬だけ男が顔色を変えたようにも見えたが、気付くとすぐにまた元の何もない表情へと戻っていた。男はやれやれといった具合に頭を振る。
「思い違いを起こしてもらっては困るんだが、俺はアンタを歓迎するとは言ったが、この小さな猫まで快く迎え入れるだなんて言ってない。確かにこいつも少々気になる存在だがね、そんなものはアンタに比べれば石ころ程度の存在価値しかないんだよ」
 いつの間にか男の腕の中には真っ白な猫が横たわっていた。耳には玉の入っていない鈴が付いている。腹部はゆっくりと上下し、安らかな表情をしているが意識はなく眠っているように見えた。
「あんたたちにとってその子も私も、あんたらの掲げる理想のための礎石でしかないのね」
「そうとも言える。だがそれはオレも、いやここにいるオレたち皆同じことだ。オレという存在ですら、この組織においてはただの礎石――道具でしかないってワケ」
 周囲に居る黒衣の影たちが外部との壁にでもなっているのか、空気の流れが遮断されているようで音もなく、ひどく気分が悪かった。べとつくような夜の闇が妙に気になる。
「……ほんと、あんたたちのやり方にはつくづく呆れるわ。よくそこまで汚くなれるわね」
 少女が顔をしかめるのに対し、男の口は小さく笑みの形を作る。
「汚いだなんて人聞きが悪いな。オレたちは何を優先すべきかをきちんと透察して、そして害を為す存在を淘汰していってるだけさ。理想のためには小さな犠牲も必要不可欠ってもんだろ?」
「はっ、そうやって理想だ大義だと掲げれば何をやっても許されると思ってる、その考え方が意地汚くて嫌いなのよ」
 ぴっ、と男に人差し指を向ける。
「悪いけど、私はそうやって人質を取られたって動じないわよ」
 男はそれを聞くと「へえ?」と面白そうに呟く。
「つまりアンタはこの猫を見捨てると、そう言うのかい」
 腕の中で小さな寝息を立てて眠る猫の首を無造作に掴んで眼前に突き出すと、男は腰にさげた得物を軽々と抜き放ち、その切っ先を純白の猫へと向ける。
 猫はそれでも目を覚ますことなく、男の為すがままにされている。
 少女は顔色一つ変えずにその様子を見守っていた。
「それなら、この場で斬り捨てちまっても一切合切構いはしないよな?」
 男は笑いもせずに、今にも触れそうな剣をぴたりと構えたまま静止している。
 周囲の黒衣の影たちは相変わらず西洋風の豪奢な直剣を胸の前に構え、二人のやりとりを黙々と眺めている。目深に被ったフードに遮られた向こう側にあるであろう顔は一体何を考えているのか、その無機質な動作と纏う雰囲気から読みとることは不可能だった。
 彼らの存在はまるで機械のように虚ろで曖昧で。その異質な視線がむしろ無性に息苦しく感じさせる。
「……構わないわよ。その子には大した思い入れもないから」
 少女が絞り出すように口にしたその言葉は、嘘とも本当とも言い難いものだった。
 男も影たちも身じろぎ一つせずにただじっと少女を見つめている。
 確かに彼女と仲直りをしたいという心はあり、その心に偽りはない。このままではいけないのだと、今までに何度も少女の側からアプローチをかけ、積極的に距離を縮めようと努力をしてきていた。
 だが彼女の方はというと全くもってそのつもりはないらしく、どんなやりとりもにべもなく返られて、そして今に至っている。
 思い入れがない、というつもりはなかった。むしろ自分には自分なりの思い入れがあると断言できる。しかし、それに応じて貰えたことなど一度もなく、こちらに来てからはまともに目を見て話してくれたことなど一度もなかった。それ故に思い入れというものも気付けば、どこかもう冷めてしまった感があるのは少女にも否めなかった。
 何をしても進むことのないその関係に、もう疲れてしまったのかもしれない。
 男はしばらく押し黙った後、ふと可笑しそうに口の端を歪める。
「何が可笑しいのよ」
「アンタは、自分が言っていることに矛盾を感じないのかい」
 少女は無言で返す。
「自らのためにこの小さな命を犠牲にしてまで生き延びる。それってのは、さっきアンタが否定したオレたちの大義のための犠牲ってモンと同じじゃないか?」
「……詭弁ね。あんたがそういう選択肢しか与えないからそうせざるを得ないってだけでしょ。そっちが巻き込んでおいて良く言うわね」
 だが心の何処かで、男の言い分は間違っていないという思いもあった。
 男の言う通り、これは自らが生き長らえるための犠牲。彼女に気を留めず、ただこの場から離れることだけを考えるのならばそう難しいことではない。見捨てるという選択肢が最も正しいのかもしれないが、だがそれは彼らが言う大義のための犠牲と何ら変わりがない。
 そうと判っていてもそれを受け入れるわけにはいかない。受け入れれば彼女も自分も彼らの手中に落ちると、少女はそう確信していた。
「だから悪いけれど、何を言われてもあんたたちに協力する気なんか――」
「おっと、ここでまだ早まって貰っては困るな」
 少女が必死にたたみかける言葉を男は遮り、構えていた剣の切っ先を白い猫からゆっくりとそらした。かといって彼女を手放す気はないらしく、まだ首を掴んだままぶらりと構えている。
 男の得物が指し示す方角にあるのは、大きくどっしりとそびえ立つ学校の施設。中からは今も絶えず柔らかいピアノの旋律が流れている。
 その視線は真っ直ぐに体育館の中に居るであろう人物を見据えていた。
「最近、いたくご執心の人間が居るらしいじゃないか。どうやら良いピアノを弾くんだそうで」
「な……ッ」
 それまで男の言葉など大して歯牙にもかけず斜に構えていた少女は、男のその言葉に遂に顔色を一気に豹変させた。
 そこにはもう余裕の欠片も存在しなかった。
「あいつは、私とは何も関係ない一般人よ?! 何を考えて――」
「へえ、関係ないなら気に留める必要なんかないんじゃないかい? ただの一般市民が生きようが死のうが、関係のないアンタには尚更どうでもいい些末事だろ?」
「そういうことじゃなくて……!」
 少女は自然と拳をぎゅっと握り締める。
「あいつは私たちのようなものとは無縁の、ただの高校生よ。そりゃちょっと変わってるけど、そこらへんの学生と同じように、普通に青春を謳歌してる一般人。そんなあいつをどうにかして、あんたたちの守るべき『律』に影響が出ないとでも思っているわけ?!」
 声高にまくし立てるも、男は全く意に介した様子はない。
「たった一人の、それこそ一般人が消失したところで律に大した影響は出ないさ。当然、影響が全くないってワケじゃないけどな。だがそんなものもアンタという存在と比較しちまうと、オレたちのとるべき行動は、アンタにだって見えてくるってモンだろうよ」
 少女はぎり、と歯がみする。
「……どこまでも汚い連中ね、あんたたちは……ッ!」 
「お褒めの言葉として受け取っておこうか」
 気味が悪いほどに紳士的な笑顔を浮かべると、男は恭しく会釈をする。その行為に少女は吐き気すら感じた。
「どう思おうが勝手だが、現状で彼の生死を決めるのはオレじゃない。アンタの選択だ」
「…………ッ」
「アンタがオレたちに協力してくれるっていうなら、この猫とピアニストの彼からは一切手を引く。だがもし断るっていうのなら、不本意だが相応の対処ってのをとらせてもらう。どうだい?」
 本来はこんな選択など迷う必要はなく、ここで「断る」と言えば何の問題もない。
 だが、何故かそう言ってしまうことを躊躇っている自分に、少女は気付く。
 おかしい。出会ってから二週間、何度か顔を合わせたというだけのただの一般人に何を拘っているのか判らない。ピアノが少し上手くて、少し性格が変わっているというそれだけの人間。男の言うように、そんな名前も知らない人間が生きようが死のうが少女の知ったことではなかった。
 そのはずが、どうして「断る」と言えないのか、全く理解が出来ない。
「…………」
 緊張に満ちた空気の中、今も流れる優しいピアノの音色。
 それはどことなく寂しさを孕んでいて、敢えて評価するならば「六十一点」といったところ。先日と比べるとあまり褒められた演奏ではない。
 少女は視線をゆっくりと体育館へ向けた。黒衣の影たちの向こう側にどっしりとそびえ立つ巨大な建造物は、まるでそれ自体が一つの楽器であるかのように旋律を奏でている。
 その中で一人、ぽつりと黒い筐体に向かっている青年の姿が思い浮かべる。
 初めてこの場所を訪れて目にしたその時の光景は、素敵な空間というものとはほど遠いものだった。生気がぽっかりと抜け落ちたような雰囲気と演奏で空気が充ち満ちていた。今もまさに、あの時と同じような音楽が流れてきていた。
 全然変わっていない。いや、むしろ悪くなっている気さえする。
「……わかった」
 自分が潔癖性である、などと少女は一度も思ったことがない。寝癖も悪く、部屋が荒れていても気に留めたことなどなく、むしろ大雑把な部類に含まれると思っている。
 だがこの演奏は聴くに堪えない。このまま放っておくのはどうにも癪に障る。
「でも、その子とあいつの無事だけは約束して。それが出来ないなら断るわよ」
 目の前に立ちはだかる男はにこりと紳士的な笑みを浮かべる。
「その点は勿論保証する。オレたちも極力、律に影響は与えたくはないからな」
「もう一つ」
 男が言い終えるかどうかで、少女はそれを無視して視線を男にぶつけた。
「その子――エレナを、あいつに直接預けたいんだけど」
 男の腕の中にいつの間にか戻っていた白い猫は相変わらず死んだように眠っている。
 男は暫く悩むようなそぶりを見せ、
「……それに乗じて逃げるなんてことは」
「しないわよ。そんな姑息な真似、あんたたちじゃないんだからするわけないでしょ」
 諦めたかのように一つ溜息をつく。
「……オーケイ。ただし、もし少しでも逃げるような素振りを見せれば、そん時は両者の命はないと思えよ」
「わかってるわよ」
 そうして男は得物を豪奢な鞘に収め、眠る猫を少女へと手渡す。
 少女は優しく抱きとめると、数週間ぶりに再会した彼女を撫でる。その姿は最後に見た時よりも妙に弱々しく、そして小さくなっているように見えた。
 抱きしめたまま、誰にも聞こえないような小さな声で「ごめん」と呟く。
 円周上に並んでいた影たちの一部がさっと開き、体育館へと送り出すように道を開く。卒業生を送り出す在校生の花道のような景色だったが、嬉しさなど込み上げてくるはずもなかった。
 体育館に向けて一歩踏み出す。
 この子がこうなってしまったのも、あの青年まで巻き込んでしまったのも全て自分の責任だと判っている。だからけじめをつけなくてはならない。
 少女はそう思いながら、漆黒の風の中を歩んでいった。


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