Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (3)

 二日続けて足を運ぶなどと言うことは滅多にしない。
 もともと気が向くままに弾いているだけの演奏会であり、聴衆も居るわけではないので特に義務感を感じたりしていたわけでもなく、そういった理由からなんとなく二日続けて行くようなことはあまりしてこなかった。
 だが昨晩の出来事――といっても見知らぬ少女と出会ったというだけの話だが、それはただ何気なく弾いてきた真夜中の演奏会に新しい意味をもたらした、青年はそんな気さえした。勿論、ただ漠然とだが。
 それがどんな変化だとかいったことはあまり考えたりはせず、と言うよりはさほど興味も湧かなかったので、今はただ取り敢えず昨晩の少女にまた出会えるような気がして、こうして体育館へと足を運んでいた。

「遅い」
 フローリングの床に身体を滑らすなり、唐突にステージの上から声をかけられた。真夜中の体育館は相変わらず深い闇に包まれているが、今日は今までよりもそう奥行きを感じなかった。
「もう少し待って来なかったら帰るところだったわよ。まったく、なんでこんな深夜に来るのよあんた。もっと学生なら学生らしく健全な生活送りなさいよね」
「……あんたに言われたくない」
 暗闇に紛れて相手の姿は見えないが声の口調から察するに、明らかに昨晩の少女であると判る。それは判るがいきなりそう言われる理由は判らなかった。
 青年は脱力したようにひとつため息をつくと、頭の後ろを掻きながらゆっくりとステージへ歩み寄る。
「ていうか、あんたもその健全な生活とやらを送ってない人間の一人じゃないか」
「うちの猫はこの時間が活動時間なのよ。ほんと、探す方の身にもなって欲しいわよねー」
 青年はステージ脇に備え付けられた階段を一段一段ゆっくり上る。ピアノへと近づく毎に少女の姿が徐々に明瞭になっていく。
 ステージに腰をかけ、他ではあまり見ない銀色の髪を指でくるくると弄びながら足をぶらつかせている。猫を探すのに四苦八苦しているかと思ったが、思ったよりも随分と呑気な風体だった。
「その猫探しをせずにここに居たってことは、もしかして俺を待ってた?」
 ピアノのカバーを外し、丁寧にたたみながらそう聞くが、
「あんたの演奏、割と気に入ったから」
 特に気にした風もなく、少女はそう答えた。
「……そりゃどうも」
 ポケットから鍵を取り出して穴へと差し込む。くるりと回して蓋を開け、天板を半分ほど持ち上げる。昨晩と同じ手順、動作で準備を進め、全く位置と高さの変わっていない椅子に座り、一つ息を吐く。
 ふと体育館内部を見渡すとそこには黒い幕があった。それはいつもと変わらない、どこにでもる黒。吸い込まれそうな恐怖に怯えたことが何度もあったそれは、だが今日は違った色を孕んでいた。
 ステージの端で腰を下ろし、口に手を当てて欠伸を噛み殺している少女。
 プールの中に落とした角砂糖のようなそんな微細な変化であったけど、確かに何か違った感覚を覚えた。どこまでも吸い込まれそうだった同じ風景が、いつもよりも親近感を覚えるというか、ただ広いと感じていた空間に何か新たな要素が満ちているような――
「何? 私が気になる?」
 退屈そうにしていた少女は青年の方を振り返ると、演奏が始まらないことを不思議に思ったのかそう呟いた。他意はなく、純粋な眼差しだった。
「いやそういうわけじゃ」
「じゃあなんでこっちをじろじろと見てるのよ」
 柄にもなく思案を巡らせているうちにいつの間にか少女の方を見つめていたことに気付く。思い出したかのように視線を泳がせると、ばつが悪そうに頭の後ろを掻いて、
「あー、いや、別になんでもないから」
「ふーん、まあいいけど」
 少女はそれきり、また足をぶらつかせて退屈そうな格好をする。視線はどこか遠くの方を見つめながら、じっと演奏が始まるのを待っていた。
 青年は静かに指を構え、右手から左手へと順番に運指の訓練をする。昨晩と似ているが微妙に異なる音階で流れるように指を踊らせると、黒い筐体もそれに合わせて指のダンスのBGMを奏でる。ウォームアップとは言え音楽を何も知らない人間が聞けば、それは曲として十分に認識させられる一つの音楽だった。
 本演奏へ入る前に、ちらりと少女を見る。
 妙な客、だと思う。昨晩出会ったばかりだというのに、まるで車のボンネットの上に新しい寝床を見つけた猫のようにこの空間に居着いている。それもなんの悪びれもなく。
 いつも一人であった空間に二人の人間が居る。学校入学直後やクラス替え直後の状況などを鑑みれば、普通に考えればそれだけで気まずくなったりするのが常であるはずなのに、どうしてだか、その状況を素直に受け入れている自分が居た。高校に進学した頃や吹奏楽部などに入ってみた当時は、クラスメイトや先輩たちとどんな会話をすればよいのか思案し沈黙になることも多々あった。そんな状況では良い気分にはなれるわけもなく。
 しかし、この状態はどこかその状況に似通いつつも違った状態だった。青年が今まで出会ってきた人間の中でもここまであっさりと打ち解けてしまう――と言ってもまだ打ち解けたといえるかどうかは甚だ疑問だが――人物が今までに居ただろうか。
 ……つまるところ自分も特異な性格の持ち主なんだろうかなどと考えた後、まあそんなことはどうでもいいかと思考を切り替え、青年はゆっくりと白鍵の上に指を下ろした。
 鍵盤は跳ね、指は舞い、弦は歌う。
 普段よりも心持ち長調の和音が多いな、などと感じながら深夜のミニコンサートは開演した。

 一時間よりも少し長い時間が経ち、演奏が終わる。たった一人分の拍手のあと少女は例によって昨晩と同じく、迫力に欠けるだの変化に乏しいだとのと言った割合厳しい評価をして「七十点」と言った。
 青年はピアノの蓋を閉じて鍵をかけると、そのままピアノの筐体に身体を預ける。普段から夜更かしなどするようなことのない青年にとって、真夜中に二日続けて忍び込んで即興曲を弾くということは割合過酷な労働である。有無を言わさず眠気が襲ってくるのも当たり前と言えば当たり前だった。
 やらなければよかった、などと思っても既に後の祭。
「だらしないわねー。若者ならもっとシャキッとしなさいよ」
 少女は先ほどと変わらず足をぶらぶらとさせながら、背はステージの上に預けて横になっている。
「二日連続って、正直厳しいんだけど」
「あーもう、最近の若者はどうしてこう体力がないわけ? 私が学生時代は昼だろうと夜だろうと、それはもう寝る間も惜しんでそこら中駆けずり回ったものよ」
「いや、昼に駆けずり回るって、それ授業サボってるじゃん」
「授業なんて、あんなの理解していれば出る必要ないのよ。ちゃんと試験で満点とれば教師もそれ以上文句は言えないでしょ」
「そりゃそうだけど」
 普段大して勉強もしていないにも関わらず悪くはない成績をとることから、青年は周囲の人間からそのことを羨ましがられたりすることがある。そのため少女の言っていることが理解できないでもなかったが、学校で実際に高成績を修めているような人間の中にこういった考えを持っている者を見たことはなかった。大抵の者は勉強をして良い成績を収めることに誇りを持ったりするものだと思っていたので、それに執着しないというのは変わった人間だなという印象を覚えた。
 そんな性格よりも気になったのは、
「というか、あんた年いくつだよ」
 少女の口走った「学生時代は」という下りから学生でないということは明らかだが、しかし外見はどう見ても学生。改めて眺めてみても、珍しい銀色の髪を覗けば仕草や服装まで至って普通の高校生といった雰囲気である。現役の学生だと言われた方がむしろしっくりくる。
 少女――もしかすると少女と形容するのも正しくないかもしれない――は上体を起こして小さくため息を吐く。
「あんた、女性に対していきなり年齢を訊くだなんて作法がなってないわねー。物事には順序ってものがあるんだから、そこら辺をきちんと弁えないと痛い目見ることになるわよ? 私だからよかったものの」
「それをあんたが言うか」
 昨晩から、演奏に対していきなりの酷評をぶつけてきたり、生まれつき性格に問題があるだのなんだのと言ってきた本人がそんなことを言っても、説得力などまるでない。
「まあ、別にいいけどね……」
 小さく溜息を吐いてうなだれる。
 既に学生でないということは当然の如く年上なんじゃないだろうかと思い、そんな相手に馴れ馴れしく口をきいている自分もどうなんだと考えるが、ここまで来て今更敬語を使うのもなんだが気が引けたので青年は考えるのを止めた。そもそも教師にだって敬語を使わないことがある青年にとっては今更である。
 そうやってぼんやりとしながら天窓の外の月を眺めていると、ふと少女の視線に気付く。後ろへ両手をついて上体を支えた状態でじっと青年のことを見つめていた。
 髪の色とは違って瞳の色は日本人のそれと大差なく、よく見れば顔立ちもアジア系、というより普通に日本人と何ら変わりがない。だがその独特の髪の色や雰囲気からどことなく日本人離れした印象を受ける。口から発せられているのは流暢な日本語だというのにも関わらず。
「何?」
 青年の側から見つめ返しても、少女は一向に視線を外さなかった。青年が問うと目を細めて顔を引いた。
「いやー、あんたって変なやつだなあと思って」
「本人に直接言うかそれ」
「あはは、悪い意味じゃないわよ。いい意味でもないけど」
 最後の一言は余計だ、と思いつつ、そのまま漆黒の筐体に身体を預けた状態で青年は視線だけ少女の方へと向ける。
 一呼吸置いて少女は続けた。
「今まで色々な人間に会ってきたけど、あんたみたいな人間には会ったことないわね。私がこれまで会ってきた人間はもっとこう、私の年齢とか容姿とかに踏み込んで訊いてくるものだけど、あんたはそうじゃないのよね……よく言えば寛容、悪く言えば脳天気というか」
「……訊いて欲しいのか?」
 青年が何気なくそう呟くと、少女は少し顔をしかめる。
「別に、そういう意味じゃないけど」
「それじゃ、そんなこと気にする必要ないだろ。俺も理由なんてないし、特に知りたいとか思わないだけだし」
 少女は表情のない、と言うよりはどういう顔をすればいいのか判らないといった表情。ぽかんとしてそのまま五秒ほど見つめ合ったあと、
「……やっぱあんた変わってるわよ」
 それだけ言ってステージから飛び降りた。
 軽い着地音と床が軋む音が体育館に反響し、少女はくるりとステージ上を見つめる。
「ねえ、あんたって毎晩こうやって弾きに来てるの?」
 少し離れた暗闇の中からアルトの声が聞こえる。青年はそれを見下ろすような位置関係になったが相変わらずピアノに上体を預けたままの格好で、眠気の所為なのか疲れの所為なのか、姿勢を変えるような気にはなれなかった。
「気が向いた日に来て、適当に弾いてるってだけだけど」
「ふーん。それじゃあんたが弾きに来る日は、私も毎回聴きに来ようかな」
 その言葉に別段驚くこともなく、青年はただ少女の目をぼんやりと眺めていた。
「別にいいけど。……そんなことより、猫はいいのかよ」
「勿論探すわよ。当たり前じゃない」
「そうじゃなくて、いつもこんなところに来てたら猫探すのも全然はかどらないんじゃないのかよ」
 そう言うと、少女は特に気にした風もなくふっと笑う。
「まあ、なんとかなるわよ」
 昨晩の割合真剣な眼差しはそれなりに思い詰めているような雰囲気だと感じたのだが、それを思わせないくらい軽い口調でそう言い放つ。あの態度は気のせいだったのだろうかと思いつつ、まあどうでもいいかと頭を振る。
 自分の演奏を好いてくれる人間は今までに何人も居た。それなりの場所で弾けばそれなりの拍手は貰えたし、称賛の声も随分と聞き慣れてきた。音楽室で弾けばそれを聞いて駆けつけてきた人間が凄いだの素敵だの騒ぐし、それは小さい頃も今も変わらない。
 しかし初対面の人間に笑顔で酷評をされるという経験は体験したことがないし、しかもその人間はそれでも「気に入った」と言う。
 ――どっちが変なやつだよ。
 青年は小さく溜息を吐く。そこに不快な表情は浮かんでいない。
「……猫の特徴は?」
「は?」
 我ながら珍しいというからしくないなと思うが、たまにはそういうことをするのも悪くないかなと自分を言い聞かせる。
「俺の所為で猫がどっか遠くに行かれても困るし、どこかで見かけたら連絡するから」
「いいけど、でもただの真っ白な子猫よ? どこにでも居るような」
「鈴とかは」
「左耳に付けてるけど玉が入ってないから鳴らない」
 白だの子猫だのよりそっちの特徴の方が判りやすいんだから先に教えて欲しいと心の中で呟いておく。
「……あんたってさー」
 月光に照らされて銀色の髪は青く輝いているように見えた。
 不思議そうな可笑しそうな、なんとも言えない表情で少女は青年を見る。
「やっぱ変なやつよね」
「まあ、そうかもな」
「あ、自覚してるんだ」
「三回も言われれば」


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