Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (2)

 ぱすぱすと乾いた手のひらを打つ音がする。
 何度も転調を繰り返し曲調も幾度となく変化し続け、そしてゆったりとした流れに乗ったまま演奏を締めくくると、先ほどまではぴくりとも動かなかった少女はそうやって拍手を贈った。青年が夜中の演奏で拍手を貰ったのは初めてのことだった。
 少女はスカートの裾を払いながら立ち上がると、ゆっくりとピアノの前へと歩み寄ってきた。見たところ青年と同じくらいの年であろう。肩のところで乱雑に切り揃えた髪、表情や小さな仕草はどう見てもごく普通の高校生といった感じである。
「ありがと、いい演奏だった」
 その不思議な侵入者の第一声。耳に馴染みやすいアルトの声だった。
「聴いたことのない曲だけど、凄く懐かしい感じ。これ、何ていう曲?」
 少女は鍵盤の真横に立つ。そこまで来れば慣れた目ははっきりと少女の形を捉えることができた。
 身長は青年よりも少し低め、色白な肌と華奢な身体は珍しい銀色の髪と相俟って、どことなく幻想的で浮世離れしたような印象を覚えた。俗に言うお嬢様、という雰囲気ではないが青年はあまり接触したことのないタイプだった。
「即興だよ。思い浮かんだメロディを適当に弾いてるってだけ。気に入ったか?」
「ちょっと雑っぽくて荒削りって感じはするけど、概ね雰囲気は気に入ったわよ。六十五点ってとこかな。あんまり他で聴いたことのないような曲風ね」
 初対面に対してさらりと厳しい評価をしてくる様子に少しむっとしつつ、初めてそういう突っ込みを貰ったことに青年は少し嬉しかった。少女が笑っているからなのか、青年も思わず笑みを浮かべていた。
「身体が自然と弾いてるんだ。曲風とかそういうのは意識したことがないな。……まあ、あんたが気に入ったならそれでいいよ」
 青年は鍵盤の蓋を閉めると手早く鍵をかける。かちりという小さな施錠音が妙に可愛く体育館内にこだました。
「しかし、いきなり現れて結構な酷評だなあんた。こんな夜の学校で一体何やってたんだ? 制服も着てないところを見ると、ずっと学校に居たって訳じゃなさそうだけど」
 続いて天板を丁寧に閉め、最後に暗幕のようなカバーを上からかけて退出準備完了。ピアノは自分のものでないと準備と片付けが楽に済むので、青年もお忍びでやるには丁度良かった。
 少女はその何でもない一連の作業を興味深そうに眺めていた。
「そういうあんたもお互い様でしょ。なんで学校に忍び込んでまでピアノなんか弾いてる訳? 随分と手際がいいところを見ると今日が初めてって訳じゃなさそうだし」
「ん、そうだな……強いて言えば、趣味かな」
「趣味? 夜の学校に忍び込んで体育館のピアノを弾くことが趣味?」
「ああ」
 これは本当のことだった。一年半ほど前から始めたこの習慣は暇潰しに丁度良く、いつの間にか週に二、三回も通うようになっていた。それを趣味と呼ぶのは、たぶん間違っていない。
 弾き始めた理由はよく覚えていなかった。ピアノの練習でないことは確かだが、ストレス発散のためなのかスリルを味わいたいからなのか定かではない。ただこうやってピアノを弾いていて不快を感じたことはないし、特に疑問も湧かなかったのでそのまま続けて今に至るのである。
「……さてはあんた、学校で浮いてる方でしょ。一人でなんか人生悟っちゃったような顔して、学校には行ってるけど授業は全然聞いてないって感じ。どう?」
 またもざっくりと切り込んでくる様子に、青年は思わず苦笑してしまう。彼女の言うことは正しく、ここまで青年に食い付いてくるような友人はそう多くない。なのでその言葉が妙に可笑しくて思わず笑ってしまった。
「まあ、そんなところだよ」
 少女もくすりと笑む。
「やっぱり。そうやってすましたような表情してるやつって、大抵そんな感じなのよねえ」
「悪かったな、この顔は生まれつきなんだよ」
「生まれたときからってことは、学校での浮きっぷりも筋金入りってわけね」
「あーもう訂正するのも面倒だからそう思っててくれ……」
 不思議な感覚だった。ついさっき出会った人間の前でこうやって笑っているというのは、青年にとってごく稀なことである。青年が砕けた言葉遣いを用いているのはただ人付き合いが不器用だというだけの話で、実際のところこうやって話せる人間など他に数える程度しか居ない。それなのにどうしてか、この少女とは気兼ねなく話すことが出来た。
 だからなのか、余計に興味が湧いてしまったのも事実である。
「それで、もう一度訊くけど」
「うん?」
「うちの学校に、何しに来たの?」
 少しだけ語気を変えてみると、少女の表情は一瞬ぴくりと硬直した。
「さっきの言葉からどうにも、この学校の生徒って感じの台詞じゃないんだよな、あんた。そもそも学生かどうかも怪しい言い回しだし」
 少女が視線をそらしたところを見ると、どうやらビンゴだったようだ。自分の通う校舎に居ながら「学校に行く」と言うのは、少なくともこの学校の生徒じゃないという言い回しである。
 そのことに自分でも気付いたのか、少女は少しばかり慌てた様子になる。
「えっと、忘れ物を取りに来たって言ってもダメ?」
「そもそもこんな時間に学校に来る生徒なんて居ないって。最終下校時刻の七時を過ぎたら校門から昇降口まで全て施錠されるんだし」
「じゃあ実は警備員でしたー、とか」
「じゃあって何だよ、じゃあって。それにそんなに若くて制服も着てないやつが警備員な訳ないだろ」
「もしかしたら居るかもしれないじゃない?」
「あんたがそう断言出来ない時点で居ないってことじゃないか……」
 赤の他人ながらあまりの無策っぷりに呆れて、青年は盛大にため息をつく。何をしにここへやってきたかは知らないが、どうにもお間抜けな侵入者のようだった。
「はあ、もうちょっとまともに対策練っておけよな……本物の警備員に見つかったらどうするつもりだったんだよ。俺は顔が利くけど、あんたはそうもいかないだろ」
「それはまあ、色々と」
 もの凄く気になる表現だったが、これ以上訊いても真っ当な答えが返ってくるとは思えなかったので止めた。
 備え付けられた時計を見やると既に一時を回っている。この時間になればもう警察や警備員も巡回を終えているということは、青年の経験上確実である。したがってこのままここで少女と話し込んでも大して問題はないということだ。
 青年はピアノの椅子に腰を下ろすと少女を見つめる。少女はというとさほど気にした風もなく、ピアノにもたれかかってだだっ広い体育館の空間を興味深そうに眺めていた。
 宵闇に包まれた体育館というのは昼間のそれに比べてより広く、より荘厳に見える。静寂という名のベールも降りれば一層神秘的な様相を呈する。月光に照らされてただの黒ではなく、藍や紺といった色に塗りたくられ、そんな中で初対面の人間が二人ぼんやりと並んでいるというのはとてつもなく不思議な感覚がした。
「猫」
 ぽつりと、小さな声がピアノの脇から聞こえてきた。視線は天井に向いたまま。
「猫を探してたんだ」
「あんたのか」
 少女はふるふると首を振る。
「でも、私の責任だから」
 それだけ言うと小さなかけ声と共に上体を起こす。
 瞳の輝きは先ほどまでとは色が変わり、幼さの残るおどけたものではなく、遙か遠くを臨むような眼差しだった。その目が何を見ているのか、青年には判らなかった。
 暫くそうしていたあと、背中に手を当ててぐぐっと伸びをすると、準備運動なのか整理運動なのか判らないがぐいぐいと上半身を捻ったり横に曲げたりし出した。とんとんと軽く跳ねてみたり、腕を回してみたり。
 青年はそんな様子をぼんやりと眺めていたが、やがて同じようなかけ声と共に立ち上がった。
 このままここに居てもいいのだろうが、これから何かをすべき人間の邪魔をしてはいけないという、半ば義務感めいたものを感じて立ち去ろうと決めこんだ。少女とはもう少し話をしていたい気もしたが、今の話を聞いた以上、あまり長居をして邪魔をするのも気が引けた。
 探すのを協力する、という考えは浮かばなかった。少女の何か思い詰めたような表情が、あまりそのことには触れずにいた方がいいという印象を感じさせたのだろう。取り敢えず、そういうことにしておいた。
「何処行くの?」
 背中に小さく声が投げかけられる。
「帰るよ。明日も授業あるし」
「そっか。それじゃ仕方ないわね」
 授業などどうでも良かったが、しかし実際授業には出るので嘘は言っていない。
 本人が気付いているかどうかは判らないが、少女の声音が心持ちトーンダウンしているように感じられた。たった今出会ったばかりの縁とは言え、名残惜しいのはお互い様ということなのだろう。青年も後ろ髪を引かれる思いがないと言ったら、それは嘘になる。
 しかし長く居れば居るほど、それこそ余計に気を使ってしまうというものだろう。青年もここが引き際だと感じていた。
「あんたはまだ猫を探すのか」
「うん、もう少しだけ」
「そっか。気を付けろよ、ここら辺静かな分だけ物騒だからな」
 ――他人を心配するなんて、らしくない。
 自然と出た言葉なだけに、青年はそう思わずひとりごちた。
「誰にものを言ってるのよ。私がそう簡単に襲われると思うわけ?」
 心配して損したといったところか。拳を握って笑顔でそう返すので青年も思わず微笑む。会ったばかりの相手の実力など知るわけもないが、これだけ無鉄砲で勝ち気な性格ならあながち、とも思えた。
「はいはいそうですか。じゃあ、またな」
 青年はそう適当に返してステージを飛び降りると、体育館の裏手へ足を向ける。振り返ると少女は小さく手を挙げていた。青年も、振り向かずに軽く手を挙げてそれに応える。
 何気なく出た言葉だったが、それには僅かな確信があった。この少女にはまた会えるだろう、と。
 だから青年にとって、名乗り忘れたことも名前を聞き忘れたことも些細な問題だった。そもそも人の名前というものに無頓着な性質(たち)であるというのもあったが、また会った機会にでも訊けばよいだろうと、そんなことをぼんやりと考えていた。

 入学当時から開いていた穴を気怠そうに抜けると微風が頬に冷たくあたる。
 いつも通りにただ思うがまま一通り演奏して何事もなく終わるはずだった即興曲(ノクターン)は、何故か普段よりも柔らかい色を孕んでいたような気がした。


***


 こちらに来てから何度かそういった人間には出会ってきていた。
 それは町中ですれ違う程度だったり、引き寄せられるように偶然訪れた場所で出会った人間だったり。
 勿論それはこちらに来る以前と変わらないので大して驚くべきことではない。むしろそういった出会いにこそ自覚のない逸材が眠っていることが多い。だからこの状況は何の不思議もない、ごく自然な状況である。
「でもあれは……尋常じゃないわね」
 ピアノに預けた背を離すと、服に付いた埃をさっと払う。
 いつの間にかはぐれていて、何故か連絡の取れない尋ね人を追ってここに辿り着いたというだけであり、今でも彼女を捜さねばならないことに変わりはない。そもそもこうやって音信不通になることなどこちらに来てからは一度も無かったことであるし、そのことについて嫌な心当たりがしていた。そう考えれば、先ずはこちらの件を片付けてしまうのが先決ではあるのだが。
 よ、と小さなかけ声と共にステージを降り大きく息を吸って耳を澄ませ、この建築物から敷地外まで周囲の状況を探る。幸いにも音が良く通る環境なので微細な状況まで感知できる。
 さわりと揺れる木々の声、車道を過ぎ去る一台の車、気怠そうに遠ざかっていく青年の足音。
 一時間前まで感じていた複数の気配は、消え去っていた。
 そのことに安堵して一つ息を吐くと、首を捻ってこきこきと骨を鳴らす。
「あいつには悪いけれど、ひとまず今はここを根城にするのが無難、かな」
 少し曇った表情をすると、少女は元来た道を引き返す。彼らが居なくなったとは言えこの場所に長居するのは得策とは言えない。演奏が終わった今、少しでも早く立ち去る必要があった。
 体育館の扉の前に立つと、鍵のかかったそれにそっと手を触れた。目を閉じて息を小さく吐くとその指先が一瞬だけ青白く輝き、すぐにまた元の暗闇へと戻る。
 扉に手をかけてそっと戸を開くと、少女は銀色の髪をなびかせながら宵闇の中へと疾駆していった。
 美しい夜桜の舞い散る合間で、うっすらと雲のかかったおぼろ月が昇っていく。


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