Zephyr Cradle

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リバーダンス-Riverdance-


0. ノクターン第2番変ホ長調Op.9-2 (1)

 体育館までの道のりは大して苦ではない。道路沿いの柵をひょいと跳び越えて、敷地内に入ってさえしまえば別棟に分かれている体育館は容易に見つけることが出来る。校舎側から見て裏側へ回ればいつもぽっかりと口を開いている大穴が待っているため、するりと身を滑らせればそこはもうフローリングの床の上である。
 軽く膝を払って立ち上がると、いつものことだがまず高い天井に圧倒される。授業中など電灯が煌々と輝いている状況ではそんなことは全く感じないが、暗闇に包まれたこの体育館の天井というのは、吸い込まれそうなほどに果てしなく高く感じられた。
 これを初めて見たときはそれこそ卒倒しそうなものだったが、今ではもう何の障害もなく眺めることが出来る。この暗闇の先にあるのは実は天井などではなく地獄のような異世界か、はたまた満天の夜空なのか。今ではそんな哲学的な思いなど巡らせることが出来るほどに余裕すら感じていた。
 そんな思いはさて置き、青年は土足のまますたすたと体育館を縦断する。ぎしりと何とも頼りのない音を立てる体育館はむしろ愛着すら感ぜられる場所。毎週数度は足を運んでしまう魅力の一つは、この古くささに親しみを覚えてしまうことにもあるのかもしれない。
 備え付けの階段に足をかけて正面に据えられたステージへと上る。少しばかり高くなった視界は、この暗闇の中ではむしろそら寒い感触すら覚える。
 何も存在しない空間。
 ただ遠くの方で車が行き交う駆動音がたまに聞こえてくるだけ。
 周囲には人家も主要道路もないこの敷地では、そんな静寂に満ちた空間というのは当たり前の光景である。日中も実に静かな環境であり、まさに学舎(まなびや)にはうってつけの場所だと言える立地条件である。授業中は教師の声が実によく響く。
 その環境は当然の事ながら学舎としてだけではなく、演奏するのにもまさにうってつけの場所と言える。周囲の雑音が迷い込むことすら容易ではないこの場所において、針の落ちる音さえ聞こえてきそうな音響は、まさに音楽系の部活動を促進させる要因の一つになっていると言える。
 青年は備え付けのグランドピアノを真っ直ぐに見据えるとそれに向かってゆっくりと近づく。ピアノの上に覆い被さっている夜色のカバーをはぎ取ると、その下からは漆黒の筐体が顔を出す。
 体育館を包む宵闇よりも暗い色に塗られた黒。その色はいつ見ても吸い込まれそうなほどに美しい。誰かの指紋がいくつか残っているが、その多くは恐らく自分のものだろうと言うことを青年は知っていた。そもそもこのピアノはほとんど使われることがないのだ。
 体育館にあるピアノなど邪魔なだけ。実際使われるのは入学式や卒業式、あるいは文化祭といった行事くらいなもので、フットサルやバスケットボールを行うときなどはいちいちステージの緞帳を閉めなければならない。そういった事情もあり今では完全に邪魔者扱いされている。存在自体がもはや忌み嫌われているのである。
 音楽室へ移動せよという声もあるが、音楽室には音楽室で専用のグランドピアノが用意させているためそういう訳にもいかず、結局いまだにこの場所に留まっているという話である。
 あるいは、見捨てられたのだ。卒業式ではピアノなど演奏せずにテープを流してしまうような風潮もあり、もはやこの剰余のピアノはお払い箱でしかない。既にもう一年以上調律されていないという事実からも明らかだろう。
 ぼんやりとそのピアノを見つめる。少しばかり眠そうな眼(まなこ)で、三十秒ほどそうやって見つめていた。無音の世界で浮かんでは消える旋律を確かめながら、しばらくして、ようやく思い出したかのようにポケットからくすんだ銀色の鍵を取り出した。
 手探りで鍵穴を探し、差し込んで捻る。かちりという、小さいがよく反響する音が体育館を一瞬包み込みそして消えていった。
 次いで手際よく天板を開き、椅子を軽快に引き寄せて鍵盤の蓋を開ける。大抵の奏者はピアノを弾く前に椅子の高さを調整するが、このピアノに備え付けられた椅子に関しては青年の他に利用者が居ないため、毎度毎度調整する必要はない。前回使用されたのも二日前の深夜に青年が用いたのが最後だろう。
 ひとつ大きく深呼吸。体育館に満ちた静寂を味わうかのようにゆっくりと吸い込み、勿体なさそうに吐く。気を沈めるためでも気合を入れるためでもなく、まるで儀式の始まりを告げるかのように厳かだった。
 ゆっくりと右手を差し出し、そして白鍵の上へと垂直に下ろす。ハンマーが緊張した弦を叩き、すこしチューニングのずれた高音が体育館の入り口の方へ向かって飛んでいった。
 その感覚を確かめるかのようにゆっくりと隣の鍵盤に触れる。チューニングのずれた、先ほどよりも少し低い音が再び体育館を駆けめぐる。その調子でゆっくりと、だが徐々にスピードを上げてピアノは発声練習を始めた。
 右手が丁度青年の正面のあたりへ来るとゆっくりと右手を離し、今度は先ほどとは反対側の鍵盤の上に左手を構える。そして同じように、右手の時とは左右対称の動きをしながら鍵盤の上を指が滑っていった。こちらは低音から高音へと上っていく音階。音は空間を駆け抜けると言うよりは、空間にどろどろと留まっているという印象のほうが強い。
 左手が正面まで戻ってくる。中央のドの音を最後に、青年は一旦椅子に座り直して姿勢を正した。右足はペダルの位置に置き、両手はゆっくりと鍵盤の上に構えられる。
 一瞬の静止。
 ダンパーがゆっくりと降りて弦に触れ、ピアノの声も途切れる。
 体育館の中にはまだほのかに残響が響き渡っていた。窓ガラスが微細に振動し、隙間から入り込む冷気は誰の耳にも認知できない共振を起こす。
 外気から押し寄せる静寂が再び体育館に満ち始めようとしたそのとき、ピアノは第一声を発した。
 右手から紡がれる音は流水のように体育館の外へと流れていき、左手はその水が溢れ出ないように優しく縁をなぞっていく。一定のリズムで刻まれるペダルは、こんこんと湧き出る音の形を常に調整し、保っていた。つい数分前までは静寂という名の暗闇に呑まれていたこの空間は、今や優しくも切ない鍵盤の音色に充ち満ちていた。
 音は体育館の外、校舎から校門までよく通る音で響いている。ピアノはそれほど大きな声で歌っている訳でもチューニングが正しい訳でもない。その微妙に歪んだ音階から生み出される旋律はむしろ、背筋がぞっとするほど気持ちの悪い不協和音を奏でることもありえると言うのにも関わらず、その優しい旋律に不快を感じさせるような因子は何もなかった。
 流れるような旋律、転がるように鍵盤を滑る指先。何気ないその演奏は、だが何処までも透き通った音を校内に響かせていた。
 夜の学校に観客など居ない。全ての教室は灯が落ち、職員室や用務員室にも残っている者など居るはずもない。夜も深まり、あとは明けていくだけの時間においてピアノの旋律だけが輝いてるかの如く鳴り響いていた。
 演奏が途切れることはなかった。湧き出る音は穏やかな流れから激しさへと変わり再び穏やかなものへ、と繰り返される。流れる旋律は波のように、耐えず押し寄せながらも同じ形をした旋律は二度と表われない。
 誰に聴かせているでもない、ただそうあるのがごく自然であるかのように、月夜の即興演奏会は続いていく。一年間ただ無為に弾き続けた夜想曲は、青年にとって日常であり、何の変哲もない一日の一コマだった。

 演奏を始めてから三十分が経過した。
 闇に覆われた視界の端で何かが動いたような気がして視線だけをその方向へ向けた。青年の意識は鍵盤からその何も居るはずのない空間へと移り、それに合わせて心持ち演奏はトーンダウンした。
 見つめた先にあるのは校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下に面した扉。小さな窓ガラスが嵌められているが暗闇の中ではそんなものも意味はなく、目でその変化を捉えることは出来なかった。扉はしっかりと閉まっているし、そもそも夜は施錠がされていて正面切ってこの体育館へ入ることは不可能なのだ。そこに何かが居るとしても、たまに見かけるネズミやネコといった類だろう。
 そう思いながらしばらく見つめていたが特に変化は起きなかった。緩やかになったピアノの音色がただ反響しているだけ。ネズミもネコもおらず、やはり幻覚だったかと思い直して意識をピアノの方へと戻すことにした。そもそも小動物が動いたとしても、ステージの上に備え付けられたピアノの前からでは距離が空いているため目視することは困難だろう。この古い校舎においてそんなことは大して珍しくもないことだった。
 ピアノの演奏が激しくなろうとした瞬間、青年の目は再び同じ方向に異変を捉えた。今度は見間違うはずもなく、扉に嵌った窓の外で青白い光が一瞬だけ明滅したのを感じ取った。
 ――誰か居る。
 そう感じると同時に鍵がかかっているはずの扉ががらりと開いた。もはや幻覚ではなく、それは誰が見ても間違いなく「開いた」のである。
 そして、人型の影が扉の内側へと転がり込んできた。
 身を滑らせるように音も立てず忍び込むと重い扉を手早く閉める。完全に閉め切った途端、その扉の合わせ目が一瞬だけ青白く輝いた。その光の色は、青年が先ほど見た色と似ているように思えた。
 この間にも、ピアノは激しい旋律を歌い続けていた。青年の目は侵入者の影に釘付けとなっていたが、指先と右足は別の生き物であるかのように音を紡ぎ続けている。まるで、その不可思議な事象のBGMであるかの如く。
 宵闇の中、その影が何者であるかは十分に見分けることが出来ない。今判別できるのは、それがおぼつかない足取りでステージへと近づいてきているということだけ。影は足取りこそ頼りないとはいえ緊張した雰囲気はなく、演奏中一人で立っているのも気まずいからどこかに腰を下ろしたいのだが椅子が見つからないからどうしようといった、そんな人間味のある仕草であるように感ぜられた。
 演奏は未だ続いていた。身体は自然と波のような音楽を生み続けているが、正直なところ青年はその影の存在に興味が向いていた。ステージの上からではどんな人物なのか判然としないが、それが例え警備会社の人間であれ、すぐに声をかけず、まるでピアノを聴きに来たかのように振る舞っているというそのことが妙に可笑しかった。ついでにあの青白い光についても知っているかもしれない。
 ふと演奏のテンポを落とし、演奏を締めようとゆっくりとした旋律に切り替える。元々即興で弾いているために演奏を終えることなどいつでも出来た。毎回、ここに来るとふっと浮かんでは消える旋律をただ漠然と引き続けていただけなのだから。
 だが、演奏をクライマックスへと向かわせていると、影が小さく動いてそれを制止した。といっても影はステージの下から手のひらを左右に振って、否定するような動作をしているというだけ。その動作はどことなく、演奏を終えてしまうのを拒んでいるように感じられた。
 本当に演奏を聴くためだけにここへ侵入してきたのだろうかと、半ば信じがたかったがその影の要望ともあり、もう少しだけ演奏を続けることにした。この即興演奏会の演奏時間は集中力の関係上、多少の誤差はあれど大抵一時間程度。まだ三十分程度しか経過してないのだから、残りの時間をいつもどおり弾き切ってしまおうと、青年は再び演奏をループさせ、そしてなだらかに次のシーンへと繋いでいった。
 影はステージ脇の階段へ腰を下ろすと、聞き入っているのかそのまま動かなくなる。
 グランドピアノの澄んだ歌声に包まれた宵闇の中、月光が照らし出した影の輪郭は、柔らかな少女の笑みを象っていた。


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