ルフのベンチ(2)

 ベッドを軽くはたいて、布団を一度払って、それから彼女を横たえる。
「はあー……」
 大学の目と鼻の先にあるアパートの部屋を借りてるからといっても、それでも女の子一人を連れて帰るのはやっぱり骨が折れた。心の中であの二人に罵詈雑言をぶつけながら校門から歩くこと数十メートル。辿り着いた扉はやけに重かった気がする。
 ゴミ袋や服や下着が平然と散乱してるけど、玄関口から居住空間(主にベッド周り)までの道程は歩けるように整備されている。これも整理整頓が苦手な人間なりの生活の知恵なのだ。ゴミをゴミ袋に入れているぶん褒められてもいいはずだ。
 ベッドへ彼女を下ろしたら途端に疲れがやってきた。眠たい。
 女の子の顔を見ても耳の角度以外に特に異常も見当たらないので、このままあの二人が来るまで二時間くらい眠ってしまおうか。
 いやその前にこの部屋をある程度片付けておかなければ。面倒なことこの上ないしあの二人が来ればどうせまた散乱するのだろうけれど、せめてゴミくらいは捨ててきた方が後々困らなくて済むかもしれない。
 よし。気合十分。さあまずはゴミを出そう。
「ん……ぅ……」
 目の前に転がるゴミ袋に手を伸ばした瞬間、ベッドから小さなうめき声が聞こえた。残念、ここでゴミを捨てるという計画は破綻した。
 ベッドを振り仰ぐと、上体を起こした女の子の姿があった。焦点の合わない目で私の後ろの壁をぼーっと見つめている。
「調子は、どう?」
 もうちょっとマシな言葉はでないのかとかあの二人に突っ込まれそうだけど、今は授業中だろうと思うので気にしない。
 女の子は大きくあくびをする。
「ん……む、問題ない」
 寝ぼけ眼をこすりながらそんなことを言われても。
「例えばどこか身体が痛んだりしない? 頭が痛いとか腰が痛いとかさ」
「……特にない、かの」
 首や肩を難なく動かせているところを見ると、どうやら本当に大丈夫そうだった。
 彼女が身体を動かすたびに綺麗な金色の髪がふわりと揺れる。窓から差し込む夕日にあてられ、うっすらとオレンジ色に染まっているのが幻想的だった。
「して、ここは何処じゃ」
「私の部屋」
「……お主は倉庫に住んでおるのか?」
 ごめん、こんな掃きだめの部屋に連れてきて。
 彼女はもうひとつあくびをしながら伸びをして、そしてベッドから起きあがる。丁度ベッドを椅子代わりに腰掛けていた私の横に、同じように座った。
 改めて彼女を見てみると、背丈は私よりも少し小柄なくらい。表情から察するに、年の頃は中学生から高校生くらいと言ったところだろうか。鋭角的な耳と金色の髪が特徴的で、瞳の色も日本人にはない緑色をしている。
 この部屋の汚さくらい、珍しいという言葉で片付けられるレベルじゃないということはよく判る。
「ふむ。では、妾はなにゆえお主の部屋に居るのだ?」
「それは、話せば長くなるんだけど」
「ほう」
「空から落ちてきたところを、私が拾ってきた」
「別に長くないではないか。それに妾は捨て猫ではないのだから拾ってきたなどと――」
 そこで彼女は言葉を切った。
「今、空から落ちてきたと申したか?」
「言った」
 それを聞くと彼女は驚いたように目を見開く。まあ普通は驚くよね。私も驚いたし。
 私には聞き取れないけど、それから何かぶつぶつと独り言を呟いているようだった。それにしても時代劇みたいな言葉を使う子だ。この子は容姿も変わっていれば、中身も同じように変わってる。
「様子が変だとは思ったが、よもや真にそのようなことになっておったとはな」
 彼女のその言葉を聞いて、きっと何か結論が出たのだろうと思った。
「えっと、考え事はまとまった? いくつか聞きたいことがあるんだけどさ」
「ん、ああ済まぬ。うむ、良いぞ」
 そう言って彼女は正面に向き直り、私と視線がぶつかる。
 小さい頃、それも幼稚園の頃に「人と話す時は相手の目を見て喋りなさい」と教わったのを良く覚えてる。でも、やっぱり正面切って向かい合うとなると恥ずかしいものだと今でも思う。見つめられることを恥ずかしいと思ってしまう。
 社会不適合者だとかいう意識はなかったのだけど、こうも視線をそらしたくなるのはやっぱり、気付かないうちに何か後ろめたいことでもしたってことなのか、私。
 彼女は別段意に介した様子もなく、しっかりとこちらを見つめている。不思議そうに小首を傾げているので、私は諦めて彼女の視線を受け止める。
「私は葉住(りょう)。葉住が名字で、綾が名前。あなたは?」
「おおそうか、まだ名乗ってなかったな。妾の名はウィンタリアという」
「ウィンタリア?」
「うむ。ちと呼びづらい名かと思うが、許せ」
 ウィンタリア。確かに呼びづらいし、なんとなくこの子には似合わないなとも思った。
「じゃあ、リアって呼ぶよ。この方が判りやすいし」
「良かろう。では妾もお主のことをリョウと呼ぶことにしよう」
 そういえばその名前で呼ばれるのは久しぶりな気がする。大学に入学してからこっち、下の名前で呼ぶ友人は今までに一人も居ない。
「ん、それじゃ次の質問。リアは何者?」
 どこから来たのかとか髪とか耳とか目の色とかをひとつひとつ聞いていくよりも、きっとこうやって聞いた方が手っ取り早いと思った。
「そうじゃの、まあ当然の質問じゃな」
「ちなみに私はそこの窓から見える大学に通う学生。他に特筆するようなこともないくらい、どこにでも居るような大学生だから、取り敢えず気兼ねなく話しても大丈夫だと思うよ」
 自分で言っててちょっと悲しくなるけど。
「ふふ、ではそうするとしようかの」
 対するリアは、その言葉にくすりと笑う。
「しかし、元々この世界には妾の世界に関する情報などあろうはずもなかろうからな、何を喋っても恐らくは問題はなかろう。もっとも、こちら側からの干渉力はほぼ皆無と見えるゆえ、何かしようと思うたところで何も出来ぬじゃろうが」
「……はい?」
「話がそれたの。つまるところ、妾はこの世界とは異なる世界から来たのじゃ」
「……この場合の世界の定義って?」
「そういう哲学的な質問は省略じゃ。辞書でも引くと良い」
 残念、このゴミ山から発掘するには丸一日かかる。
「でも異世界って言われてもねえ。そんな漫画みたいな話……」
「なんじゃ、リョウは妾の容姿を見てもそう思わぬのか。この世界では異質な格好をしておるとは感じなかったか?」
 まあ確かに。耳や瞳もそうだけど、そういえば服装もなんだかヨーロッパのお姫様みたいなドレスだ。彼女の口から「パンがなければケーキを食べればいいじゃろう」なんて言われても全く違和感を感じないと思う。
 でも、それとこれとは話が別。
「えっとほら、人は見かけによらない、かもしれないでしょ」
「なんで語尾が弱々しいのじゃ。……ふむ。しかしそれには一理ある」
 空に浮かぶ城に憧れる子どもじゃあるまいし、そんな夢物語をあっさりと信じ込んでしまうほど単純な思考回路はもう持ち合わせていない。
 確かにリアには変わったことがいくつもあるけど、全てを「はいそうですか」と受け入れるのには抵抗がある。これでも常識人を自負しているつもりだし。あの二人よりは。
「ならば、証明してみせようかの」
 リアはそう言って、コップをひとつ要求した。流しを覗くと、まだたらいに浸かったままのコップが見つかった。私は使う前に洗う派だ。
「洗った方がいいよね?」
「リョウは一体どういう生活を送っているのだ……まあ良い。そのままで構わぬ」
「ん」
 とは言っても濡れたままという訳にもいかないので、一応タオルで拭ってから放り投げた。
 危なげながらもそれを受け取ると、リアは隣に座るよう促した。なんだか怪しげな笑みを浮かべながら。
「まさか魔法でも見せてくれるわけ?」
「うむ、そのまさかだ」
 リアはコップを持った手をすっと掲げると、何やら小さく口ずさみ始めた。
 歌のようでいて詩のようでもある、柔らかな声でそれを紡ぐ。
 夕日の差し込む部屋の中、コップがほのかに輝き始めたと感じた瞬間、リアは空いた手で指を弾いた。
 すると、弾いた指から小さな光の粉のようなものが舞った。
「わ……!」
「水の精じゃ。正確にはワテルという」
 その粉はコップへと吸い寄せられ、くるくると周囲を回り出した。普段から放置されていたコップはお世辞にも綺麗とは言い難かったけど、みるみるうちに新品同様に磨き上げられていく。
 すっかり綺麗になったかと思うと、今度はコップの中に水が満ちていった。どこから湧いたのかとか解明する間もなく、水道から注ぐのと変わりない速度でコップに水が満たされていく。
 コップがいっぱいになると水の精は舞うのをやめた。そうして、どこへ戻るのかなと思うと、リアの手元へ戻るのではなく部屋の中へと溶けるように消えていった。
「ほれ、飲んでみよ」
「いや、えっと、大丈夫なのそれ?」
「なんじゃ疑うのか? 大丈夫じゃ、妾が保証する」
 手渡されたそれを、私はするりと喉へ通す。
「あ、美味しい」
「ふふ、そうじゃろう。ワテルがもたらす恩恵の水は、妾の世界でも最上級の飲料水として嗜まれておるからな」
 得意げに胸を張るリア。でも、これだけでは終わりじゃないと付け足す。
「そのコップをさっき妾がやったように持っておれ。うむ、そうじゃ。落とすでないぞ」
 何をするのかと思うと、今度は少し気合が入った声音で再び何かを口ずさむ。
 そしてさっきと同じように指をパチンと弾くと、また同じように水の精が宙を舞った。
「此度は水の精ではなく、火の精じゃ。名をプラメという」
 訂正。水じゃなく火でした。
 その火の精はやっぱり同じように、まだワテルの水が残ったコップの周囲をくるくると回る。火の精が私の手の近くを通ると暖かいような、くすぐったいような感触がした。
「火の精ってことは、今度は」
「まあ見ておれ」
 リアに言われた通りに見つめていると、コップの中に残った水から泡が浮き上がってきた。徐々にコップの温度も上がってる気がする。ぶくぶくと音を立てて沸騰しだしたところを確認すると、リアは得意げにまた指を鳴らし、火の精たちを散らした。
 掲げたままのコップの中に指を突っ込むと、リアは満足げに二度頷く。
「ふふ、どうじゃリョウよ。この精霊の力というものは、お主の住まうこの世界には存在せぬであろう?」
「う、うん」
「妾がこことは異なる他の世界から来たことを認める気になったかの?」
 ああ、今なら言える。どんとこい超常現象。
「私の負け。リアは異世界から来た魔法使いのお姫様。……これでいい?」
「魔法使いのお姫様……と言うと、ちとまた語弊があるの」
「いいのいいの、私からはそう見えるんだし。それにしても凄いなあ、その魔法」
 今のを手品だったとは、微塵も疑っていないかった。
 咄嗟に声も出なくなってしまうほど、全然まったくの超常現象――魔法にしか思えなかった。自分は単純思考でもなければ非常識じゃないと心の中で豪語してたさっきの私は、どこへ消えてしまったのやら。
 対するリアはというと、随分と得意げな顔をしてにやにやと笑っている。
「ふふふ、そう褒めるでないリョウよ。妾ほどの者ともなれば、これくらいはへそで茶を沸かすくらいに簡単じゃ」
 へそで茶も沸かせられるってことですかそれは。……確かに、さっきの火の精を使えば出来そうな気もするけどさ。
「しかし、この世界にも不思議なからくりで水を出したり湯を沸かせたりする力があると言うではないか。それは真か、リョウ」
「からくりって、」
 こっちはリアの魔法に驚いてたのに、急に話を振られるとは思ってなかったから思考が少し出遅れた。からくりなんて言うから、すぐには判らなかったけど、
「あー、水道とかガスとかかな」
「ほう、やはりあるのじゃな。どのような力なんじゃ?」
 リアは興味深そうに私の顔をのぞき込む。
「そんなに期待されても、さっきの綿飴とヒラメみたいに派手じゃないよ?」
「……ワテルとプラメのことか?」
「そうそう、それ」
 別に、お腹が空いているとかじゃないよ?
「その言い間違いは意図的としか思えぬぞ、リョウ。……まあ良い、派手でなかろうと、妾は興味があるんじゃ。この世界の科学は相当発達していると聞くからの」
 まあ、そこまでして見たいって言うのなら。
 私は薄汚れた流しの前まで行って、リアを手招きする。目を輝かせながら早くせんかとせかすリアの目の前で、私は盛大に水道の蛇口を捻ってみせた。
「ふわっ?!」
 リアは先の尖った耳をぴんと立てながら、一歩後じさる。
 蛇口から水を出しっ放しにしたまま、ガスコンロの火も点けてみる。
「おおっ!」
 勢いよく流れる水とコンロの火を交互に見ながら、リアはとても楽しそうに顔をほころばせた。
 異世界から来た人間がこの世界の科学の力を見て驚く。うわ、なんてベタな。
 でもそれは、私が魔法を見た反応も同じか。
 水もガスも家賃に込みなので問題はないけど、このまま出しっ放しにしているとリアがいじりだしかねないしのでこの辺で止めておく。私が止めるとリアは少し残念そうな、でも満足そうな顔をする。
「なるほど、これが噂に聞こえしこの世界の科学か。うむ、噂になるだけはある。妾の住まう世界の科学力とは、確かに比べ物にならぬな」
 十分に堪能したように見えるリアは、しかしそれでも飽きたらないらしく、ところどころ黄ばんだりしてる台所をぺたぺたと触ってる。さっき私が捻った水道の蛇口とか、まだたらいに沈んだままの箸とか、銀色に磨かれたステンレス素材とか。あんまり綺麗なところじゃないんだけどいいのかなあ。この部屋、黒くて硬くててらてら光ってて暗くて狭くて湿ったところが好きなわりに足の速い速いアレが良く出るんだけど。
「――むあーッ!!」
「あーほら言ってる側から、」
 また出たかと言いかけた瞬間、その例の黒いのは「ジュッ」と音を立てて、文字通り消滅した。
「…………」
「まったく、不意打ちなどと姑息な真似をしよるわ」
「今、何を?」
「何、リョウが気にするほどのことではない。妾を驚かさせた罰が当たったのじゃ」
 ただひょっこり顔を出しただけで蒸発させられるだなんて、なんて可哀想な生き物なんだ、アレ。今に始まったことでもないんけど。
「というか何じゃっ、こちらの世界にも居よるのか、あやつはっ」
 ていうか異世界(そっち)にも居るんだ、アレ。
「……えーと、どこまで話をしたっけ?」
「ん? ああ、妾がこことは異なる世界から来た人間じゃということじゃ」
 そうだった。それで魔法を見せてもらったんだった。
「あ、そうそう。それで、その魔法使いのリアがどうしてここに来たの?」
 窓の外の景色に視線を移していたリアは、私の声に振り向く。
「そもそも、どうして空から降ってきたのかってのも不思議なんだけど」
「そうじゃな。つい話がそれておったな」
 そう言いながら、リアは顎に手をあてて少し考える。
「ふむ、経緯を話せば長いぞ。丸三日は語り明かせよう」
「いえ、もっと手短にお願いします」
「なんじゃつまらんのう……。妾の武勇伝をこの世界にも広めて進ぜようと思うたのに」
 凄く残念そうな顔をしてる。
「まあ、一言で言うなれば……見聞を広めるためじゃな」
 語り尽くせば三日かかる内容はその一言で纏められた。
「それはこの世界を知るってこと?」
「うむ、そうじゃ」
 リアの話を簡単に纏めると、こうだった。
 リアの居た世界には他にも数多く存在する世界の技術や文化、物、情報が多く集まる場所らしい。しかし実際にその世界へ足を運ぶ手段は限られていて、実際のところは他の世界へ行こうと思うことは夢物語でしかないというのが常識だった。
 当たり前のことだけど、物と情報の流れがあるということは、どこかで確実に異世界との行き来が発生していることとも言い換えることができる。偶発的なのか意図的なのかはさておき。
「そうじゃ。往来する方法がないわけではないのだ」
 リアは大きく頷く。
「ただその特別な権限を持つ者にしか許可されておらぬ故、多くの民はその存在すら知らぬというだけなのじゃ」
「じゃあ、リアが今ここに居るってことはつまり」
「うむ、妾もその権限を持っておる」
 自慢するでもなく、リアは答えた。自称ではあるけれど、世界でリアの名前を知らない人間は居ないというのだから、きっとそのくらいの人間になれば自然とその権限にも手が届くくらいの地位に居るんだろう。
「じゃが、これまでに一度も余所の世界へ行ったことがなくての。ようやく、こうして世界を渡ることが出来たというわけじゃ」
 リアは一部の人にしか発行されないパスポートの所持権のようなものを持っているにも関わらずこれまで使用できずにいたけれど、ようやくそれで海外旅行へ行ける機会が出来た、といったところか。
「幼き頃からこの世界の知識には興味があったからの。妾の初めての渡航は、ここにしようと決めておったのじゃ」
「でも、なんでまた空から降ってきて? 最初から地面の上に出てくればいいのにさ」
 良い質問じゃ、と頷く。
「妾も初めてじゃからな、その理由はよう分からぬ。妾にとってみれば、見ず知らずの門をくぐらされた次の瞬間には、このベッドに寝ておったという感覚しかなかったのじゃよ」
「ああ、そっか」
「もっとも、この部屋が整頓されておらぬお陰で、妾もここが異世界であるのだと認識できたのであるのだがな」
 この部屋の汚さがお役に立てて、何よりです。
 都祭といい和久井といい、そしてこのリアといい、なんだか今日はほとんど圧し負けてばかりという気がする。
 普段からそういう傾向が強いような覚えもあるけれど、今日はそれ以上だ。
「そうじゃ、妾はどんな風に落ちてきたのじゃ? 特に怪我もしておらぬようじゃが」
 空から降って来たと聞いて驚いていたところを見ると、リアは当然、そうやって移動するとは全く思ってなかったのだろう。そうともなればやはり、自分がどんな風に落ちて来たというのは興味があるところだと思う。
 少し考えて、こう答えた。
「ベンチでぼんやりしながら雲ひとつ無い空を見上げてると金髪のエルフの女の子があらぬ速度で落下してきたので凄いなーと観察してたら地面に盛大に激突して学校の校内に大きなクレーターが出来た」
「嘘じゃな?」
「うん、半分くらい嘘」
「……リョウは知らぬようじゃから特別に教えてやろう。火や水といった精霊の他にも数多の精霊が妾の僕として仕えておる。その中に、拷問の精というのが居る。こやつらは力はあるが、普段はその半分も使わぬ。じわりじわりと舌を抜くのが好きでな、特に嘘つきの舌は格別らしく、妾が呼ばずとも自然と」
「……ごめん、私が悪かった。悪かったから、その光ってる手を下ろさない?」
「もう、遅いわ」
「うわあッ?!」
 先ほどのふたつの精霊と同じような光の粉がくるくると呑気に部屋を舞う。私はそれを見て逃げるように、というか逃げるために座っていたベッドから転がり落ちる。床に散乱したゴミとか服とか教科書とかをどかしながら後じさるけど、呑気な精霊はそれでもゆらりゆらりと着実に私に近づいてきていた。
 やばいやばい。テストの時にこれっぽっちも当ててくれやしない私のなけなしの直感がこれでもかと警鐘を鳴らしてる。あの光たちはきっと錆びたペンチを持って私の舌を鷲づかみにすると大きな株を引っこ抜くようにみんなで歌なんか歌いながら抜こうとするに違いない。
 背中に壁がぶつかる。もう逃げ場はない。もう目の前まで迫った精霊たちはいよいよはやし立てるように周囲を勢いよく回り始めた。ごめん。痛いのは勘弁して。せめてやるならひと思いに、――
「くくっ、ははははっ!」
 ごみ箱には隠れられないしそもそもごみ箱って何処にやっただろうかと思い出していると、突然リアが笑い出した。尖った耳も嬉しそうにぴんと立っている。
 リアがぱちんと指を鳴らすと、精霊たちは溶けるように消えていった。
「冗談じゃよ、冗談。くくくっ……お主、良い反応をしよるの」
「だ……だって今、本気で怖かったんだぞっ。ジョークだとは思ったけど、まさか本当に精霊を出すとは露ほども思ってなかったしっ」
 水を沸騰させたり黒いアレを一瞬で蒸発させたりするのを目の前で見せつけられた後だから、余計に怖い。冗談だと判っても、怖いものは怖かった。
 ひとしきり笑ったリアは、にやにやといやらしい笑みを浮かべている。いくら負けっ放しだからって、よりにもよって都祭の真似をして冗談なんか言うんじゃなかった。人選を誤った。都祭の所為だ。都祭のバカ。
「ふふ、お主が嘘など申すからじゃ。冗談には冗談で返すのが礼儀というものじゃろう? ボケには突っ込みじゃろう」
「まったく、やな礼儀もあったもんだね」
 なんだかおかしくなって、二人で笑い合った。これはこれで、まあいっか。
 おしりについた埃を払ってからベッドへ座り直す。そこで改めて、リアが落ちて来た時の状況を説明した。突然降って来たこと、駆け寄って受け止めようとすると全く衝撃を感じなかったこと。落ちて来たことに気が付いたのは私だけだったこと。私が受け止めた後は都祭と和久井にも見えていたけど、今思えばどれもこれもおかしな出来事だ。
「妾も初めてであったゆえ推察でしかないが、世界を渡る折りは、天空から人知れず降りてくるものなのじゃろう。多くの者には見えぬ、急降下からブレーキをかけて降り立つまでの流れを、リョウはたまたま目にしてしもうた。それだけじゃろう」
「それじゃ、私にだけ見えたっていうのはどうして?」
「大衆が感じ取れぬそういった事象を、幼き時分からその者の意志にかかわらず目にし、口にし、肌で感じ取ってしまうという者は少なくない。リョウにはたまたま、潜在的にその素養があったのじゃろうて。稀に居ると聞く。良く耳にする話じゃ」
 小さいころから、夜寝ていると金縛りにあうとか墓地の近くでは霊の存在を感じるとかそういったことは、一度もなかった。神の声を聞いたとかUFOにさらわれたとか猫のバスに乗ったとか悪の組織に改造されたとかいう覚えも、もちろんない。それでも素養っていうのはあるものなんだろうか。
「そういう魔法を使える人間って、リアの世界には沢山居るもん?」
「うむ、()る。と言うてもある程度の知識を持つ、或いは修練を積んだ者でなければ、実用的に行使することは難しいがの」
 だから誰でも使えるというわけではない、と付け足した。そもそも感じるのと使うのとでは全く理屈が違い、例え素養があったとしても何も知らない人間となんら変わりはないらしい。
「まあ妾はその中でも、精霊の恩恵を行使する力と風を自在に()る力に長けておるのじゃ。今はこのようにお主と変わらぬ容姿をしておるがな、妾の世界ではこのウィンタリアという名を存ぜぬ者はおらぬのだ」
「へえー。じゃ、もしかして様付けとかしなきゃまずかったりする?」
「ん……む、いや、まあそう呼ぶ者も多いがな」
 何気なく言った言葉だったけど、リアからはなんとなく歯切れの悪い返事が返ってきた。頭の両側に生えた耳がしゅんと垂れ下がる。
「じゃが、リョウはそれで良い。他の者のことなど、気にすることではない」
「……」
 リアはそう言うと、窓の外に視線を投げた。
 尖った耳は、未だに床へ向いたままだった。さっきからああやって上下している様子が、とても気になる。
「その耳、リアの感情に合わせて動くんだね」
「ぬあッ?!」
 と奇妙な声を上げながら、リアは咄嗟に耳を手で押さえつけた。
「リアの世界の人たちはみんな、そうやって耳で感情を表現するの?」
「この耳はそんなに安っぽいものでないぞ、妾の一族特有の高貴な耳なのじゃ!」
 リアはそう言いながら勢いよく振り向いた。言葉の割に、まだ耳を押さえ付けて隠してる。加えてどことなく、顔が少し赤くなってる気もする。
「お主らの世界ではエルフだなんだという種族ともごっちゃにしよるが、元々は精霊を行使する力の源泉となる魔力を安定させるための感情の起伏を制御すべく発達したものであり――」
「やっぱり、そうなんだね」
「ぐっ……」
 耳を押さえた手を離し、リアはぷいとそっぽを向いてしまう。あ、拗ねた。
「リョウ、お主は存外いじわるじゃな」
 思わず頬が緩んでしまう。口調は容姿に似合わず大人びているけれど、しかし仕草はやっぱり子どもらしいところもあるんだなと安心した。
「ごめんごめん、別にそういうつもりじゃなかったんだ。ただ、可愛いなあって」
「か、可愛いじゃと?」
 その言葉に振り向いたリアは、首を傾げながら耳をひょこひょこと動かす。
「この耳が、か?」
「うん、可愛いじゃん? 都祭……ああ、私の友達なんだけど、彼も耳を動かせるし別にそういうのは普通と言えば普通なんだけど。でもその耳は、なんだか猫みたいで可愛いよ」
「猫などと比較されるのは心外じゃが……まあ、お主にそう言われると、あまり悪い気はせぬな」
 そう言っている間もぴこぴこと耳が上下する。
 もっと言えば、リアの大人びた物言いとその容姿のアンバランスさが可愛いんだけど、流石にそれを本人を前にして言うのははばかられるので、心の中で留めておく。
「リョウは面白い奴じゃな」
 まだ耳をぴよぴよと動かしてる。さっきより早い気もする。
「そうかなあ、自分では全然そんな風に思えないけど。別に、取り柄とかないし」
「そもそもお主のこの世界は他の異世界との交流はほぼ皆無と聞く。そこで妾を見ても何とも思わずに家へ上がらせるというのは、普通ならばありえぬ。加えて些か不用心じゃろうて」
「えっと、気絶した人……エルフ?」
「この世界で言えばエルフと総称されるじゃろう。エルフで良い」
「気絶したエルフをそのまま落下地点に放置するよりは、汚いけど安全な私の家の方がいいと思っただけだよ。そこまで気にしなかったのは確かに、不用心だけどさ」
「ふふ、別に不用心であることを責めておる訳ではない。そういうところが面白いと言うたまでじゃ」
「それは褒められてるのやら、けなされてるのやら」
 リアはからりと笑ってから、それに、と付け足した。
「妾の耳を可愛いなどと称したのはお主が初めてじゃ、リョウ。妾の世界では珍しくもない上、妾の種族を忌む者も居るくらいじゃ。今までにそう言ってくれおった者はおらぬ。妾の周りではこの耳は当たり前すぎて、見た感想を口にする者もおらぬ」
「そうなんだ」
「ふふ、なにやらくすぐったかったが、嬉しかったのだぞ? 妾を喜ばせたのじゃ、誇りに思うて良いぞ」
 単純に猫の耳を可愛いって思うのと大差なかっただなんて、この雰囲気じゃ口が裂けても言えない。
 リアはそこまで言うと、何かを閃いたようにやりと笑った。
「ふむ、決めたぞリョウ」
 なんとなく予想が付いた。これは決して、リアの言う素養だとかサヨリだとかいうものではなくて、純粋な直感だ。
「しばらくお主のところに厄介になる」
「これ、妾が言おうと思うたことを先に言うでないっ!」
 あ、当たった。
 リアは先に言われたことが不満だったらしく、腕を組んでぷくっと頬を膨らませた。
「まったく、少しは空気くらい読みおれ。……まあ、そういうことじゃ。特に明確に決めてはおらぬが、滞在期間中はお主の世話になろうと思うておる」
「その心は?」
「お主が気に入った」
 一秒で即答された。
「発つ前から特にアテもなく、宿は適当に探せば良いじゃろうと思うておった。妾への理解がある者もこの世界には居よう。そこへ当たろうと思っておったのじゃが……なかなかどうして、お主に興味が湧いた。お主とおれば、良い時間を過ごせそうじゃと思うてな」
 リアはとても面白いことを企んでいる子どものように、にやにやと楽しそうに笑う。頭の横では耳がぴこぴこと上下する。やっぱり可愛い。
 それはともかく。
「私の都合は、お構いなし?」
「学生はよく寝て、よく学び、よく遊ばねばならぬ。つまりは、そういうことじゃ」
「良いように使われてる気がするなあ……」
 でも、この状況を愉しんでる自分にも気が付く。
 どうしてこう、気が付けば周りに都祭とか和久井とかこのリアとか、ちょっと変わってる人間が沢山集まってくるんだろう。類は友を呼ぶという言葉があるけど、流石に認めたくない。自分がその中心に居るだなんていうのは認めない。私はもっと普通の人間、のはず。
「まあ、いいよ」
 だから、こういう普通ではないことに憧れるんだ。
 それはあの友人二人にも当てはまることで、きっと無意識のうちに呼び寄せてしまった。リアもそう。それをリアの言葉では、きっと「素養」と呼んでいるのだろう。私には無意識下にそういう力があるっていうことを指しているんだと思う。
 うん、そうだ。そうに違いない。それなら納得できる。
 だから私は、断じて、普通の人間。
「これも何かの縁だろうし、リアも大変だろうから。その滞在期間と私の懐にもよるけど、私に出来る範囲で良ければ協力するよ」
「何、寝床さえ貸してもらえればそれで構わぬ。あとは如何様にでもなろう。妾には精霊たちが付いているゆえな」
 それは私にとっても心強い。何かあったら頼ってみよう。
「ふふ、では暫く厄介になる。よろしく頼むぞ、リョウよ」
「こちらこそよろしく、リア」
 私たちが握手を交わすと、扉を開ける音が聞こえた。開け放たれた玄関口から顔を覗かせたのは、授業が終わった都祭と和久井だった。さっき着信音に驚いたリアが消そうとした携帯へのメールは和久井からのもので、授業が早めに終わるというものだった。いつもよりも早く終わった二人は、呑気にビニール袋を下げてやってきた。
 それはともかく、部屋に入る前にノックくらいはして欲しい。あの二人、私がそういうところに鈍感なんだと思ってるに違いない。
 私が文句を言うと後ろでリアが笑う。耳もひょこりと可愛らしく動く。
 また変わった人間――じゃなくてエルフが私の周りに増えたけれど、これはこれで良いかな、と思う。
 賑やかなのは、嫌いじゃない。

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