ルフのベンチ(1)

 今はこんなベンチでくさくさしてる身だけど、この世に生を受けてからこれまで二十年、まあそれなりに真っ当な人生を送ることが出来てきたと我ながら自負してる。そこそこ名の知れている中堅大学へ浪人せずに入学出来たし、授業料と家賃以外の家計は自分の手で稼いで満足な生活をすることが出来てる。
 そんな生活の中では勿論驚くことも結構あるけど、あったとしても幼稚園へ通っていた二年間だけ一緒だった友人と大学で感動の再会を果たしたというくらいなもので、そうそう椅子からひっくり返って転げ落ちるくらいに驚くべきようなことばっかりではなかったと思う。
 そんなこれまでの人生を一言で言えば、たぶん順風満帆。何か目標を持って生きてきた訳ではないけど。
 だけど今、目の前で起きているこれは、まさにベンチからひっくり返ってもおかしくない――いやどちらかというと口を開きっぱなしにして「ぽかん」とか擬音でもおまけで付け足した方がしっくりくるくらいの現象だと言えると思う。
 なんと言っても、雲ひとつない空から女の子が降ってきた。
 たった今、この瞬間。
「……わぁッ?!」
 女の子が降ってきた、と言うからにはそれくらいのスピードで落ちてきているという意味。理解しやすいように物理学的に言うと、自由落下。重力加速度九・八くらいで地球に引かれるリンゴのごとく落ちてきている。あるいは単純明快に文学的に言うと、真っ逆さま。
 彼女が着地、というか落下するであろう数歩先の地点を見やると、どう見てもコンクリートで塗り固められた上にびっしりと敷かれた無数の真っ白なタイルが見える。
 あれは、本気で天地でもひっくり返らない限り助かる見込みはない。
 周囲に視線を巡らせても、大学構内でも元々人気(ひとけ)の少ない場所であるこのテラスには、他の学生の姿は数える程度で、ましてや地面へ向かって急降下する女の子の姿に気付いている人間は誰ひとりとしていない。
「ああもうっ!」
 何を血迷ったのか、この身体は彼女の落下地点へ向けて駆けだしていた。
 このベンチから数歩先なのでタイミング的にはぎりぎり間に合うはずなのは判るけれど、しかしあの速度で落ちてくる人間の下まで駆け寄って何が出来るのかというと一緒にミンチになることくらいしか思い浮かばない。
 今まで真っ当な人生を送ってきたとは言っても、この年頃で死にたいとはこれっぽっちも思ってもいない。じゃあ無視すれば良いと言われればそれまでなんだけど、ここで見過ごすことは本能的に拒否された。別にお人よしだとは思っていなかったんだけど、まったく損な性格をしてる。ここでミンチになるのは勘弁して欲しいんだけどな。
 既に女の子の身体は目の前にあった。ミンチになるだのならないだのと思っていた考えはどこかへ行ってしまい、考えるよりも前に腕を突き出していた。
 痛みに備えて目を瞑り、歯を食いしばる。
 五体満足で居られればいいだなんて高望みはしない。でも取り敢えず、命だけはご勘弁を……

「――――っ」

 正直。  腕がもげるだけで済めばいいや程度にしか思っていなかったんだけど。
 でも、腕にやってきた衝撃はそれよりももっと、拍子抜けしてしまうくらいに柔らかくて暖かい感触だった。
 優しい香りが鼻をくすぐる。
 彼女の髪の香りだと気付くまでに、そう時間はかからなかった。

 恐る恐る目を開き、彼女の姿を確認する。気付けば腕にはその少し小柄な女の子ひとり分の体重がかかっていて、手の甲には金色の綺麗な髪がくすぐったく触れていた。
 女の子、というと語弊があるけど、少なくともここの学校に通う人間の誰よりも若く見える。まだ幼さの残る顔立ちは、その髪の色も相俟って、まるでどこかのおとぎ話に出てくるようなお姫様のようだなんて思った。
 あらかじめ否定しておくと、決してそういう趣味があるわけじゃない。見た通りのまま、可愛いものをただ素直に可愛いと形容しただけで、他には全く、他意はない。
 落下のショックでか、彼女は目を閉じたまま意識を失っている。息をしているところから命に別状は無さそうだ。咄嗟に受け止めた時の外傷もなく、他に怪我などもしていない。
 ふと視界の端に、髪の中からにょきりと覗く大きな耳が見えた。
 別になんということはない。最近流行の、頭のてっぺんから毛の生えたうさぎだの猫だのの耳が生えているという奇っ怪なことはなく、普通にヒトの耳があるべき場所にのみ耳が見える。
 だけど、彼女のは少し違った。大きい。
 ていうか先が尖っている。
 自分の記憶に間違いがなければ普通のヒトという生き物の場合はもっとこう、まるっとしているものだったと思うのだけど、この女の子の耳は、耳の先端が鋭角的に尖っている。
 きょうび、この国でも金色の髪というのは別に珍しくもないご時世になったけど、この尖った耳は流行してなかった……はず。
「隠し子か?」
「わあっ?!」
 背後から唐突に声をかけられた。思わず女の子を手放しそうになったけど、すぐに抱え直す。
 視線だけで振り返るとそこには例の、幼稚園の頃に一緒で大学入学の時に再会したという曰く付きの友人が立っていた。
「な、なんだ都祭(とまつり)か。吃驚した……急に後に立たないでよ、もう」
「そんなのいつものことじゃないか、いい加減慣れろと言うのに」
 この都祭という友人は良く背後から気配を殺して第一声を発するのが多い。他の知人らは何も違和感なくそれをさらりと流してのけるが、正気を疑う。毎回毎回それをやられると正直心臓がいくつあっても足りないと思うんだけど。
「その、いつも背後から登場するのはなんで?」
「や、別に深い意味はないさ」
「じゃあどんな意味?」
 何が可笑しいのか都祭は口の端に笑みを浮かべ、さあ耳をかっぽじって聞くが良いとばかりに眼鏡をくいと持ち上げる。
「ただの趣味だ」
 お願いだからやめてその趣味。
「そんなことより、葉住(はずみ)
「うわあっ?!」
 都祭と話していると、彼とは反対側――つまり今は背後となった位置から、都祭とはまた別の声の主に名前を呼ばれた。
「……なにをそんなに驚いてるのさ、葉住」
 再び声の方向へ振り向くと、白衣に身を包んだ長身痩躯の同級生が不思議そうな顔をしていた。
「なんであんたらはそうやって人の後ろからいつもいつも……!」
「え、ああ、僕はたまたまだよ。教室に行こうとそこを通りかかったら君たちが見えたから。僕には都祭みたいな悪趣味はないし、そんなことはしないよ」
 その言葉に、都祭は怪しく口の端を上げる。
「それはどうだろうな。お前は葉住に少なからず好意を抱いているようだから、あながち意図的に驚かしたわけでなくもないんじゃないか、和久井(わくい)
「あはは、君じゃあるまいし。そんなこと、大っぴらにやらないよ僕は」
 和久井はにっこりを綺麗な笑顔を見せながら言うけど、大っぴらにやられないのはそれはそれで嫌だ。
 都祭と和久井は、この大学に入学してすぐに親しくなった友人だ。大学になっても付きまとう英語の授業にて、くじ引きで決めた発表の班がたまたま一緒だったからという切っ掛けを発端に、以来二年ほどの付き合いになる。
 何処で得たのか判らない知識と趣味を持つ都祭と、一見すると好青年にしか見えない年中白衣の和久井。なんでまたこんな濃い連中とつるんでいるのかと悲しくなってくるけど、考えたら負けなんだと自分を言い聞かせることにしている。
「っと話がそれたけどさ、葉住」
 和久井が思い出したかのように、視線をこの腕の中の存在へ落とす。
「ん?」
「その子は、なに?」
 まあ、その疑問は当然湧くよね。
「それが、わかんない。さっき空から降ってきた」
「なんだ、隠し子でなければ、魔界か神界あたりのお姫様でもさらってきたのかと思ったけど違うのか」
 どんな混ぜ合わせのお話ですかそれ。
 和久井は周囲に視線を巡らせ、あごに手を当てながら小さく唸る。
「そっか、でもそれにしては他の学生は誰一人として気付いていないようだけど……本当にその子は空から降ってきたの? 怪我ひとつ見当たらないし」
「それを言われると弱いんだけど。でも、確かに死ぬ覚悟でこの子を受け止めたし、現にこの子はここに居るわけだし」
「うーん」
 信じられないのも無理もない。「空から女の子が降ってきました」って言っても、「ラピュタなんて存在しないよ」と返されるのが関の山というところだと思う。宇宙ステーションならともかく、天空の城なんてロマンチックなものもテレビの中でしか見ることはできないのが現実。
 実際のところ、かく言う自分自身、この腕の中の光景をまだ信じられていない。だって空から女の子が降ってくるなんて、普通に考えてありえないじゃん。
「しかしまあ、その葉住の言葉は信じるしかないだろうな」
 都祭は腕を組み、視線ではこの腕の中の子を見つめて呟いた。
「その如何にも本物のような尖った耳を見れば、そうそう疑うことも出来ないだろ」
 この耳、最初は偽物かもとも思ったけど、それにしては精巧だし、しっかりと頭の横から生えているようにしか見えない。引っ張ってみるようなことをしなくとも、本物の耳だということは疑う余地もない。
 ……なんだか、とてつもなく奇怪なことに巻き込まれたような気がしてきたよ?
「今ならどんな超常現象もどんとこいと言える気がするな」
 都祭、あんたはひとりで物理学者にでもなってろ。
「じゃ、この子の正体はさておくとして」
 和久井も都祭と同じように腕を組む。
「この子、どうするの?」
「どうするって言われてもね、どーしよ?」
「うーん、怪我はないようだから良いとしても、気を失ってるのは確かなようだし、その外見も目を引くよね。こんな衆人環視のある場所に放っておくわけにもいかないんじゃないかな」
 それはごもっとも。
 和久井は都祭と違って、一見すると真面目で優しくてハンサムな二枚目なので、こういう時はやっぱり頼りになる。
「ひとまずは目を覚ますまで、どこかで安静にさせておくべきだろうね。目を覚ましたら事情を聞けば良いと思う」
「じゃあ、保健室にでも連れて行く?」
 横で都祭が「この学校に保健室なんてあったのか」とか言ってるけど無視する。確かに判りにくいところにあるとは思うけど、都祭は去年、血圧測定で引っかかってお世話になってでしょうに。その年で引っ掛かるんじゃない。ザルだからって酒の飲み過ぎだ。
 和久井は少し考えた後、何かを閃いてにっこりと笑う。
「保健室よりは、葉住の部屋のほうがいいんじゃない?」
「……今なんて?」
「だから、葉住の部屋で一時的に預けるってことで、万事解決」
 前言撤回。この男はやっぱりヤな奴だ。
「ああ、それはいいな和久井。こういう時、校門を出て徒歩一分もない位置に部屋を借りている葉住は役に立つな」
「でしょ? この広い大学の敷地内にある保健室よりも近いだなんて、とても理想的な場所だと思うよ」
「そうだな。葉住はどうせもう今日の授業が終わってベンチでいつものように悶々としていただけだろ? 今日は金曜か、あいつも来ない日だな。時間的な問題もない、完璧だ」
「じゃ、そういうことで」
「『じゃ、そういうことで』じゃなーい! 二人で勝手に話を進めるんじゃないっ!」
 全部この二人の言う通りなのが口惜しいけど、でもここで「はいそうですね」と受け入れるわけにはいかない。
「二人とも、どーせうちの部屋に入って散らかってる様をあざ笑って、家に帰るのが面倒だからあわよくば酔いつぶれて一晩騒いで、そのまま明日登校したいってだけなんでしょーが!」
 あんなに汚い部屋にこんな三人も入れるはずがない。この子は事情が事情なのでともかく、都祭と和久井の二人だけは一歩たりとも入れるわけにはいかない。
「うん、そうだけど?」
 笑顔でさらりと即答するのは和久井。この男、いい根性してる。
 この二人が部屋にやってくると部屋が片づくどころか、今以上に汚くなるのは目に見えていた。散らかっているものを更に散らかすとは、どういう了見か。
 ここは全力をもって阻止したい。のだけど、都祭の言う神界とやらに慈悲のある神様はいないらしく、ここで時間切れを示す間の抜けた鐘の音が敷地内に響き渡った。
「おっと。僕はこれから授業があるから行かなくちゃ」
「ああ、俺も生命科学の授業だ」
「ちょ、ちょっと待っ」
 スピーカーから流れるドミソの音は、無情にも四限目の開始を告げる。
 言葉で引き留める時間もないため、仕方なく物理的に引き留める作戦に乗り換えることにする。が、何故か逆に、和久井から女の子を抱いたままの肩をしっかりと掴んでいた。
「な、何」
「早く行かなくちゃ席が無くなってしまうからね、僕たちは急がないといけない」
「う、うん判ってる。だけど」
「残念だけど、これ以上ここで葉住とその子にかまけている時間はないんだ。本当に残念なんだけど」
「残念なのも判った、けどっ」
「だから、あとは葉住に面倒を見て欲しいんだ」
「で、でも」
「というかそもそもこの子を拾ったのは葉住でしょ。だから最後までよろしく」
「うわ今本音出たよ?」
「じゃっ!」
 とか言い残すと、和久井は勢いよく肩を叩いて校舎の方へ駆けていってしまう。逃げた。絶対逃げた。間違いなく逃げた。あと今絶対笑ってた。
「……俺はな、葉住」
 和久井の走り去る方向を眺めながら都祭が呟く。にやりと笑みながらまたも肩に手がぽんと置かれる。ていうかまだ居たのか。
「今日の五限の授業なんだが」
 何。まだ何かあるの。
「和久井と同じ授業なんだよ」
「……」
 あんたたち、普段は仲悪そうだけどこういう時だけ仲が良いよね?
 都祭はそれだけ言うと鞄をかかえ、てくてくと校舎の中に入っていってしまった。
「ま、負けた……」
 ここまでやられると、負けを認めざるをえない。思わず両手両膝をついてうなだれてしまうほどに、完敗した。
 きっとあの二人はこの子を保健室に預けたと言っても結局のところ部屋に上がり込んでくるだろうし、いくら扉の前で制止しても数時間後に再び酒をちらつかせながら「もう終電ないから」とか言いながら何食わぬ顔でやってくるに違いない。もうこれ以上ないくらいに見え見えの展開なのだけど、しかし抗う手段は残されていないことも同じくらいに見え見えだった。
 日が傾いていくと共に、大学の敷地内から人の気配が消え始め、このテラスも他に誰もいなくなっていた。というか最後まで誰もこの子の存在に気付かなかったのかい。
 腕の中の女の子は相変わらず気を失ったままで、ぴくりとも動く様子はない。
 保健室もそろそろしまってしまう時間だし、仕方ない、やっぱりうちに運ぶしかないか。
「…………」
 家が近いからとは言え、私一人でこの子を運べと?

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