Zephyr Cradle

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月下のてるてる坊主


 夜明けの空、窓の外を見上げると二つの月が浮いている。
 一方は太陽ほどではないけどゆっくりと角度を変えていって、またもう一方は、どうしてそんなに急いでいるのと聞きたくなるようなスピードで沈んで行く。急いて進む近月は日に二度も、昇っては沈む。まるで遠月に見せつけているみたいだった。
 そんな毎日毎日繰り返される、亀と兎の徒競走をじっと見つめていても、面白味が湧くということはない。だけどなんとなく見入ってしまうのは、マスターいわく「二人を応援したくなるから」らしい。わたしにはそんなつもりなんて全くないのだけど、そうさせる何か、不思議な魔力でも発してるということなんだろうか。
 もう一度空を見上げる。既に明るく白んできている東の空から、今日もまた太陽が顔を見せる。二つの月よりもゆっくりとした速さで、でも確実に顔を出していった。
 このままぼんやりとしていても二度寝してしまうだけなので、わたしは寝所を抜け出ていつもの制服に着替えることにした。

 わたしは普段楠見(くすみ)家の小間使いとして控えている。食事の支度から掃除洗濯まで一切合切全ての世話が、わたしに一任されていた。時に秘書めいたこともすれば、家主であるマスターの代わりに買い出しに出ることもある。簡単に言えばお手伝いさんということになる。
 だけど今は楠見の家ではなく、お隣にあたる桐生家に泊まり込みで遣わされている。というのも、今週の始めに桐生姉妹の妹、桐生(きりゅう)奈月(なつき)が体調を崩したのだと聞かされたからだった。
 小さいころから身体の弱い奈月にとっては特に珍しいことでもないのだけど、今は姉の満月(みづき)さんが海外に行っている。そのため、普段から何かと接点の多い両家の縁というのもあり、わたしは今、マスターの命により桐生の家に来て奈月の世話をしているということになっている。
 わたしが訪れてから三日が経ち、既に体調は安定していた。あと一日二日も安静にしていればしばらくは安心だと思う。だけどここで気を緩めてはまた悪化しかねないので、治りかけの時期には慎重にならなければいけない。朝食はあまりこってりとしていない――そう、ホットケーキがいいかもしれない。
 このご時世には珍しい、石造りの廊下をぱたぱたと歩いて厨房へ向かう。立派な嵌めガラス、陶器の置物、絨毯を敷いた階段。この桐生家の屋敷はどれも前時代的なアンティークな造りで、まさに洋館という言葉が似合う。日本の伝統家屋であった平屋造りの楠見家とは、まるで正反対の造りをしてる。どちらも時代錯誤であることに変わりはないのだけど。
 歩を進めるたび、壁に備え付けられた豪奢なランプに明かりが灯る。扉の前に立てばわたしを迎え入れるように開き、室温が高ければ独自に判断して温度を調整する。見た目は古臭いにも関わらず、こういったライフライン・システムはきちんと整備されているというのは、わたしが仕える楠見家と異なる点だった。
 楠見の家のシステムは一般家庭レベルにも満たず、そういった装置は一切備え付けていない。明かりを灯すのも扉を開けるのも全て手動。しかも敷地が広いということもあって、マスター一人では自分の家を全て制御し切れないらしい。
 わたしは忙しいマスターになりかわってそれらの管理をする。そのためにわたしはマスターに従事している、というわけだ。
 扉が開け放たれたままの薄暗い厨房へ足を踏み入れると、冷蔵庫の前には小さく屈んだ少女の姿があった。お気に入りの赤いケープを羽織り、寝癖だらけの焦げ茶色の髪を無造作にしたまま、部屋の明かりも点けずに冷蔵庫の中をごそごそと漁っている。
 わたしは一歩近づくと、ため息を吐きながらその小さな背中に向かって、
「行儀が悪いです、奈月」
「ふわぁっ!」
 その少女――現在わたしが面倒を見させて貰っている相手の奈月はわたしの声に滅法驚いて、ギョッとした目でわたしを見つめた。
「お、おはよう沙紀ちゃん。今日も可愛いね」
 奈月は引きつった笑顔を作るも、わたしは黙ったまま顔色も変えず、じっと彼女を見下ろす。
「えーっと、これはなんというかその、寝起きの一杯を探してたっていうか」
「牛乳なら探すまでもなく目の前にあると思いますけど?」
 冷蔵庫の一番手前に入っているそれを指さすと、彼女は「うっ」と言葉を詰まらせる。
「……お腹が空いたのならそう言って下さればよかったのに」
「だって、沙紀ちゃん起こしちゃ悪いかなーと思って」
 彼女が配慮してくれているのは嬉しいけれど、もう少しわたしの立場も理解して頂きたい。
「その気持ちはありがたいのですが、それで奈月の体調が悪化してしまっては元も子もありません。なるべく早めに朝食を持って行くので、奈月は大人しくベッドで寝ていて下さい」
「むー……じゃあ我慢するから、早めにね?」
「はい、勿論です」
 奈月はとりあえず満足したようで、おぼつかない足取りで自分の部屋へと戻っていった。本当は部屋まで付き添わなければならないのだろうけれど、一人でここまで来る気力があったのだし、顔色も悪くはなかったから恐らく平気だと思う。
 開いたままの扉から奈月が階段を上って行くのを確認すると、わたしは朝食の準備に取り掛かった。

「タナバタ?」
「そう、七夕」
 朝食の後、空になった奈月のカップにアップルティーの代わりを注いでいると、彼女は唐突にそう切り出した。
「織姫と彦星が一年に一度だけ、天の川を越えて会うことのできるロマンチックな日。沙紀ちゃんも知ってるよね」
「ええ、勿論です」
 七つの夕方と書いて七夕。スクールで習わずとも、この国の子供ならば誰でも知っているお伽話のひとつだ。その子供受けが良さそうなファンタジックなお話と、竹に願い事を書いた五色の短冊を飾って翌朝に川に流すという、流れ星と同じように子供心をくすぐる風習。それはこの国に広く言い伝えられていて、いつからか国内の殆どの地域で七夕祭は毎年の恒例行事の一つになっている。
 その日に雨が降ると天の川の水かさが増してしまって二人が会えないというお話もあり、その日の前日には、翌日が晴れるように願をかけたてるてる坊主という小さな人形を買って軒下に下げる。
 そういう訳で各企業の商戦もこの一週間ほどが正念場。うちの短冊はこんなに綺麗ですよとか願いが叶いますよとか、うちのてるてる坊主はこんなにも形がいいですよとか、一見下らなくても子持ちの親には特に重要な時期がこの七夕だったりする。
 近くのモール(商店街)もこの時期は特に意気込んでおり、モール中を竹や短冊に加えて様々な電飾などを用いてお祭りを行う。といってもただの安売りセールを示し合わせて行うだけだったりするのだけど。
「そういえば、もう五日後でしたか。すっかり忘れてました」
「確かにモールの方も準備はまだだけど……あれ、晶悟さんからは何も聞いてないの? 今年も七夕で一役買ってるのに」
 奈月はわたしの顔を不思議そうに覗き込む。
 モールの七夕祭では、マスターが毎年呼ばれている。そのお陰もあっていつもはこの時期をしっかりと把握しているのだけど、今年は別段そういった話もなく、いつの間にかカレンダーは七夕まであと五日を示していた。
 どうしてだろうかと考えてみると、ほどなくして思い当たる。
「マスターは普段から忙しそうな素振りを見せたりはしませんが、今年は特にそういった話を聞いた覚えはないです。最近奈月の看病をしていてこちらに来ていたから忘れていたわたしも悪いのですけど」
「あーごめん沙紀ちゃん。そっか、私も看病させちゃったからっていうのも当然あるよね」
「いえ、それは気にしなくてもいいです。いつものことですし、これも仕事の一つですから。奈月の身体よりも、物忘れや言い忘れの多いあの人の方がよっぽど悪いです。まったくあの人は……」
 雇い主であり主賓でもあるマスターよりも、わたしの方がこういった行事や儀式に敏感というのは些か問題のように思う。そもそも忘れっぽいなどということは行事の有無に関わらず、人として問題だと思うのだけど。
 小さくため息をつく。あの人のことを考えるといつもため息が出てしまう。一家の主であるはずなのに、どうしてああも抜けているのだろう。何かとわたしがついていなければ物忘れをするドジを踏むというあの性格は、もはや天性としか言いようがないほど極めている。
 そんなわたしの様子を見ながら何か一人で納得したような顔をすると、何がおかしいのか奈月はくすりと笑う。
「まあ、それはいいんだけど」
「よくないです。今笑ったでしょう、奈月」
「気のせい気のせい」
 そう言いながらも手を口に当てて笑みを隠している。
 奈月と彼女の姉は時折こうやって、わたしやマスターと話している時など意味深に笑ったり勘ぐったりすることがある。その際に問い詰めても大抵誤魔化されてはぐらかされてしまう。それが別段不快という訳ではないけれど、どうにも腑に落ちない。何がおかしいというのだろう。
 ここで食い下がっても、奈月はわたしの反応を見て一層楽しそうにからかってくるだろうというのを知っているので、わたしは話題を戻すことにした。
「それで、七夕がどうしたんですか」
「あ、うんそれでね」
 そう言って奈月は言うべき内容を整理しているようだった。小さく唸っているところを見ると、伝える順序を考えているのだろうと思う。
 三秒ほどして「よしっ」と小さく言うと、ぱっとわたしの方へと向き直った。
「今年の七夕はいつもと違って特別だってことは知ってる?」
「特別、ですか」
 わたしが知らないという素振りをしていると、奈月は得意そうに胸を張って説明を始めた。
「というのはね、今年の七夕は旧暦の七夕とぴったり同じ時期にあたるらしいんだよね。この前お昼の特集で紹介してたんだけど、このぴったり同じになるのって三六〇年に一度っていう周期なんだってさ。だから各地のお祭りも今年は一層気合が入ってるってわけ」
「へぇ、そうなんですか」
 わたしは知らなかったのだけれど、奈月の話によれば、東京の方はギラギラに飾った巨大な竹だとか短冊(大きな短冊ってなんだか変かも)だとかを主要駅の出口の前にどかんと置いたり、可愛らしくデフォルメ化されたてるてる坊主のマスコット・てるてる(なんて直球な名前なんだと奈月が転げ笑っていた)が練り歩いたりと、今年は普段よりも大々的に七夕を宣伝しているという。都会ではクリスマスか何かと勘違いしているんじゃないだろうか。
「でもモールの方は例年通りの準備の遅さですね」
「まーあそこの人達はマイペースっていうかなんていうか。千年に――ううん、一万年に一度だって言ってもたぶんあの調子でしょ。以前彗星が肉眼で見えた時も、テレビはあんなに騒いでたっていうのにみんなはさっぱりだったじゃない」
「そういえばそうでしたね。あの時はしゃいでいたのは奈月だけでしたし」
「そうそう! もうほんとにそういうのには疎いんだから、あの人達ってば!」
 奈月は呆れたような、でも楽しそうな顔をしていた。モールの人達が世間一般のように騒いだりしないことに奈月はいつも呆れていたが、しかし彼女は彼らのことを嫌いだとかつまらないだとか言ったことは一度もなかった。たぶん逆で、そういうのんびりとしたところをこそ好いているようにも見えた。
「っと、話がそれちゃった。それで今年は折角なんだから何かやらないかって私が直接掛け合ってみたのよ」
「……誰が、誰に、何を?」
「私が、組合長に、祭の拡大を」
 ぴっと自分を指さしながら奈月は明瞭に答える。
 何かとお祭好きイベント好きの奈月なら考えられなくもなかった。この少女は時々こうやって突拍子のないことを平然とやってのける。
 だからわたしには、今年の七夕祭の打ち合わせをしている組合会議の真っ只中に特攻して「今年は三六〇年に一度の大切な七夕なんだから」と弁舌を振るっている様が容易に思い描けた。
「それで、どうなりましたか」
「それがもうさっぱり掛け合ってくれなくて。確かに何かやりたいけど、そんなお金も見世物もこのモールにはないじゃないか、って組合長に言われちゃってね」
 確かに首都・東京からそれなりに離れた場所にあるこんな片田舎では、普段と違うことをやっても何か特をするということもないのだろう。例えば出稼ぎへ行っている若者たちが戻ってくるなどということも、前後日が平日であるためにあまり見込めない。
 改めて考えてみると、慣例どおりに行っているこのお祭り騒ぎも、積極的に行う意味も必要もないと言えばないのかもしれない。
「勿論組合の人達もそうしたいのはやまやまなんだろうけどね、私にも何か具体的な案があったわけじゃないから渋々引き下がったの」
 奈月はそこで会話を区切り、適度に冷めたアップルティーをくいと煽って一息つく。
 開け放たれた窓の外に見える空は快晴。少し冷えた風が奈月の髪をふわりと撫でた。あまり風に当たらせておくのもまずいだろうと思い、わたしは窓を閉めようと手を伸ばすも、奈月はそれを手で制した。
「それで私が帰ろうとしたときにね、組合長あてに電話が入ったの。誰からだと思う、沙紀ちゃん?」
「と、わたしに言われましても……」
 突然話を振られても、わたしにはさっぱり判らなかった。
 組合の会議の席に電話をいれる人間なんて居るわけがない。組合長の笹川さんへ緊急に用事があるような人は、みなその会議の席に出席している。またモールの人間は全員、その日の会議の時間を知っているので、電話をいれて敢えて話の腰を折るようなことはまずしない。
 そうやってわたしが真剣に考えている様子を見ると、奈月はくすりと笑む。
「晶悟さんだよ」
「――は?」
 意外なところで意外な名前が出てきたので思わず変な声が漏れてしまった。
「えーと確か、『陰陽の糸が交わる御年の棚機には、是非とも色とりどりの儚き花々を岸辺に咲かせ僭越ながら、御二人のひとときの逢瀬を、共に祝福致しませんか』とか言ってたかな?」
「つまり花火大会を催したいということですか。わたしにも一言くらい相談して下さればいいのに、あの人はどうしてこう突拍子もなくこういうことを……」
 わたしは呆れながらそう呟く。今までそんな話は一度も話題に上ったことはなかったし、花火だなんて大掛かりなものをいきなり言い出すだなんて、唐突にもほどがある。確かに煽り方としては間違っていないと思うけれど。
 そんなことを一人で考えていると、今度は奈月が驚きと尊敬の交じったような眼差しを向けていた。
「今のよく判ったね、沙紀ちゃん。僭越とか逢瀬とか、そもそも花火をやるっていうのを意味してるだなんて、晶悟さんが言い直してくれないと私達にはさっぱり理解出来なかったのに」
「それくらい理解出来ないと勤まりませんから」
「うん、流石は沙紀ちゃん」
 それのどこが流石なのかは、ひとまず突っ込まないでおくことにする。
 マスターは他人と会話する際、稀にこういう婉曲した言葉を用いて敬語の代わりにする癖がある。今では滅多に使わないような古い言葉を用いていることもあるので、なるべく控えるように注意しているのだけれど、マスターはというと一向に直す気配が無い。
 そういうわたしはマスターの側に仕えているうちに、いつの間にかその古めかしい言葉を覚えてしまった。稀にわたしの口からも自然と出てしまうことがあるので気を付けるようにしている。
 それはともかく。
「どうして、そこでマスターが出てくるんでしょう」
「ん?」
 わたしはベッドの脇に寄せられていた椅子にゆっくりと腰掛ける。
「以前から打ち合わせていたというのならまだしも、先程の話から察するに、花火の件を明かしたのは先日の会議での席が初めてのことでしょう。マスターがやらなければならないというわけでもないですし、どうしてマスターが突然そんなことを……」
 理由はそれだけではない。
 マスターは大規模な演出をあまり好いていない。そういったものは世界の流れに変化をもたらしてしまう可能性があるためだとよく口にしている。そんな理由から普段は殆ど使わないようにしていて、その能力があるということをわたしもしばしば忘れてしまうほどだった。
 だというのにいきなり俗世に影響を与えるようなものを、しかもおおっぴろげに提案するなどということは、わたしが知る限り一度も無い。
 それを知っているはずの奈月は大して不思議がることも悪びれることもなく、ただ少しはにかみながら、
「あー、うん、それはそのー、折角のイベントなんだから今年の七夕祭は何かやらないのかなー、って私が遠回しにねだってみたとゆーか」
 えへへと可愛らしく微笑んでみせた。
 ああ、なるほど。そういうことならわたしもすぐに得心がいく。わたしでもその事実くらいは知っている。というよりも本人の口から直接聞いていた。
 曰く、奈月とマスターが付き合っている、と。
 身体は弱くてもミーハーなところのある奈月は、こういう「何年に一度の」系のイベントには実によく食いつく。それはこの街で最も付き合いが長いであろうわたしでなくとも知っている周知のことであり、当然のことながらマスターも知っている。
 そこで奈月を喜ばせようと思うのは、彼女の相手(パートナー)としてごく自然の感情だろうと思う。
「晶悟さんには手間かけさせちゃって悪いとは思ってるんだけど、でもそれでみんなが喜ぶならいいよね。組合の人達も凄く楽しみにしてるみたいだったし」
「そうですね」
 マスターも社交的でないという訳ではないのだけれど、買い出しに姿を見せるのがいつもわたしだけというのは、モールの人達からしてみれば不思議な様に映るのだろう。いつもマスターは元気かと訊ねられる。
 わたしよりも世俗に疎いあの人が、街の人達との交流を持つ機会が出来たというのはとても喜ばしいことだし、家の奥に引きこもって本の虫になっているよりはずっと健全なことだ。
 それにわたしも、マスターが描く花火を見てみたいという願望がない訳ではないので、そういう意味でも楽しみだった。
 ――だけどどうしてだろう。
 胸の奥が、ちくりと痛むのは。
「……どうかした、沙紀ちゃん?」
 頭上から柔らかい声がかけられて、わたしは視線を持ち上げた。
 知らず知らずのうちにわたしの視線は足元へ落ちていたみたいだった。奈月が心配そうに覗き込んできたので、わたしは努めて明るい笑顔を返した。
「ううん、なんでもないです。五日後がとても楽しみですね」
 奈月も嬉しそうな笑顔で首肯する。
 だけど、わたしが好きなその笑顔を見ても、胸の痛みは一向に消える気配がなかった。
 そよりと冷たい風が窓から入り込む。それはわたしの中にまで染み渡るようだった。
「でさ、ちょっと訊きたいんだけど」
 ふと奈月が、思い出したように口を開いた。
「なんでしょう」
「花火って、どんなの?」
「…………」
 胸の奥だけでなく、何故だか頭も痛くなってきた。


***


「わ……」
 昨日まではいつもと同じ、地元の人達が行き交う田舎の商店街という風景だったのが、たった一日ですっかり様変わりしていた。
 各店の前には大小さまざまな大きさの竹が飾られ、その葉には色とりどりの短冊が括りつけられて風に揺れている。一見しただけだと竹林かと思わされるほど、モールは緑一色に染め上げられていた。
 よく見ると竹の中には、短冊だけでなくてるてる坊主が釣り下げられているものもあった。確かに明日の夜は晴れてほしいという願をかけて竹につるすというのは判るけれど……何か間違っている気がする。
「よう、沙紀ちゃん」
 わたしが立ち止まって見とれていると、隣にはいつの間にか体格のいい豆腐屋の店長が立っていた。
「こんにちは、麻井さん。今年の飾り付けは豪華ですね」
 背の高い麻井さんを見上げると、彼はおうよ、と嬉しそうに胸を張る。
「奈月ちゃんと楠見の旦那に発破を掛けられたかンな、俺達も若いモンにゃ負けてらンねェさ。どうだい、気に入ったかい?」
「ええ、とても素敵です」
「そっか、そりゃ良かった。お前さんに喜んでもらえりゃ、俺達もわざわざ緑園省からこんなに沢山取り寄せた甲斐があるってモンさ」
 大きな声で笑いながら麻井さんはわたしの肩をばしばしと叩く。豪快なその笑いを見ているとなんだか自然と笑みがこぼれそうになるが、しかし今、この人がさらりと凄いことを言ったのをわたしは聞き逃さなかった。
「緑園省からって、これまさか全部……本物なんですか」
「ッたりめェよ。今まではレプリカで我慢してきたがな、やっぱ本場モンじゃなけりゃ短冊の願いも届きゃしねェんじゃねェかってな。数百年に一度の大祭だ、たまにゃこういうンもいいだろ」
 まァ組合の貯金が一気に吹っ飛ンだがな、と小声で付け加える。
 笹の葉はそよ風に揺れてざあっと雨のような音を立てた。これがレプリカなんかではない、本物の竹の音。葉が風を受ければ竹全体が傾いで、軋む。ぎしりと重そうな頭を揺らすけれど、それでもその太い幹は一向に折れる気配を見せない。少し白みがかった深緑の身体は、見た目以上にしっかりとしているようだった。
 ふとわたしの脇を、小さな子供たちがはしゃぎながら駆け抜けていった。普段は家の中でテレビゲームをしたり漫画を読んだりしているような年頃の子供が、初めて見るその本物の竹を見て「すげー」とか「ざらざらしてるなーこれ」などと楽しそうに戯れている。
 麻井さんはその光景を、嬉しそうな顔をして眺めていた。
「昔はもうちょい自然が残ってたンだがな、今じゃどこも開発で切り倒されちまったりレプリカやらに変わったりだ。だからガキたちも家ン中にこもっちまう」
「だから子供たちにもっと自然に触ってほしい、日の光を浴びてほしい。そういう意味合いも込めているという訳ですか」
「はは、まァそんなのも後付けの理由だがな。結果的にガキたちのああいう姿が見れたモンだから、俺もちィと嬉しくなっちまったってワケよ」
 東京の中心地域ではもう自然物など何一つないのだとよく言われている。街路樹はどれもレプリカか、もしくは痩せ細った養殖の木々。屋上菜園なんていうものも一時期流行っていたけれど、いつの間にかぱたりと消え失せていた。
 都会の子供たちは、もはやこんなものを見ることもできないのだろう。もしかしたら今年の七夕くらいは東京でも本物を使うかもしれないけれど、税金の無駄遣いだと言って渋る自治体も少なくはないはずだ。そもそも元から七夕祭を催さないような地域ならば、レプリカの竹でも豪奢なものと思われるのかもしれない。
「へへ、らしくもなくしんみりしちまったな、済まねェ済まねェ。沙紀ちゃんは夕食の買い出しに来たんだろ? うちの豆腐、買ってくンだよな」
 ぱん、と両手で頬を叩くと麻井さんはにかっと笑って店の中へ足を向けた。わたしは頷いて、大きくない店内の敷居を跨ぐ。見上げると軒下に小さなてるてる坊主がつるされていた。
「はい、今夜は揚げ出し豆腐を作ろうと思って。木綿を一丁お願いします」
「あいよゥ!」
 良く通る返事と共に、麻井さんは店の奥にある水槽の中へ大胆に腕を突っ込んだ。あふれ出る水を被るのもものともせず、腕を引き上げた時には真っ白な直方体がその手に乗っていた。
 包まれた豆腐と交換するようにわたしはカードを渡し、代金を差し引かれたそれを再び受け取って懐へ仕舞う。
「旦那は元気にしているかい。明日は花火大会だってェのにここ最近、姿を見かけねェが」
 少ない客のうちの一人の応対を終えた麻井さんは、煙草に火を灯しながらそう呟いた。営業時間中に吸うのはどうなんですかと注意するような人はこの街には居ない。
「至っていつも通りです。明日のことはあまり気にしていないみたいです」
 マスターは普段からあまりバイオリズムの変化が見受けられないのでわかりにくいけれど、わたしが見る限りはそういう印象だった。こういう時はもう少し気に掛けてもいいのではないかと思うのだけれど。
「旦那らしいわな。だけどこの間の節分のときみたく、また忘れてたりはしてねェよな?」
「そればかりはわたしも心配なのですが……今回は大丈夫だと思います」
 奈月の頼み事ならマスターも忘れはしないと思う。どんな花火を用意しているのかは想像もつかないけれど、奈月を落胆させるようなことは絶対にしないだろう。
 街の人達の期待が高まっているのも見て取ることができた。「今年の七夕祭は一味違う! 三六〇年の歴史を持つ楠見・桐生両家秘伝の花火が今、開花する!」という、かなりの誇張と誤解の入り交じった煽り文が書かれた派手な広告が、各々の店先に所狭しと表示されている。当然のことながらこの豆腐屋にもその広告はある。
 行き交う人々の会話の端々にも花火という言葉が出ているのを、この数日でよく耳にするようになった。街全体が時間を追うごとに少しずつ高揚していくのを感じることが出来る。
 この分ならきっと明日の花火大会は上手くいく、わたしにもそう思うことが出来た。
 麻井さんはふっと紫煙を吐き出すと、からからと笑顔を見せた。
「そっかそっか。まァ魔女さんもわざわざオーストラリアから帰ってくるってェ話だしな、忘れるわきゃねェか」
「……今なんて?」
 豆腐屋の主人は顎髭をさすりながら不思議そうな顔をする。
「あァ? なんでェ、沙紀ちゃんは旦那から聞いてねェのかい、花火には魔女さんの協力もあるってェ話」
 また、胸がちくりと痛んだ。
「……いえ、聞いてません」
 まただ。またわたしの知らないところで知らない話が進んでいる。
 マスターの身辺を預けられているわたしの情報が最も遅い。
 どうして、どうしてわたしが知らないことをみんなが知っているのだろう。
 先程まで笑っていた麻井さんは表情を一瞬で凍らせて、煙草を握ったままわたしを真っ直ぐに見つめていた。心配そうに声音を落としているけれど、わたしは今そんなに落ち込んだりしているように見えるのだろうか。
「おいおい……なんで沙紀ちゃんに知らせてねェんだよ、楠見の旦那は。まさかお前さん、旦那と喧嘩でもしたのか?」
「そんなことは、ないです」
 マスターと喧嘩などしたこともないし、出来る訳がない。わたしは主人に仕えている身なのだから当然のことだと思う。かと言って絶対服従をしているという訳でもなく、どちらかと言うとわたしの方からマスターの至らぬ部分を指摘することが多い。
 だけど喧嘩をしているだとか、そんなことは決してない。
「そうか、ならいいンだが……けどよ、なんつーか……大丈夫か?」
「大丈夫です、ご心配には及びません」
 これ以上ここに居て麻井さんに心配をかけては迷惑だと思い、わたしは早々に切り上げることにした。ここに留まっていても何の解決にもなりはしない。
 最近わたしは変だ。
 先日、奈月から花火大会の件を聞かされて以来、どこかネジが緩んでしまったかのように心がもやもやとする。胸がちくちくと痛む。
 表面的にはわたしにも奈月にも、勿論マスターにも何も変化はない。今までと大差なく、わたしはマスターの世話をしているし、奈月も具合がいい日は外を駆け回ってモールの人達に呆れられているらしい。マスターも相変わらず部屋にこもって文献を漁りながら文筆に勤しんでいる。
 いつも通りの毎日が続いているはずなのに、わたしの中はいつも通りのじゃない。何が起こったというのか。
 ……深く考えるのはやめよう。そんなことを気にしていてもきっと何か重大なミスを犯してしまう程度で、他に得るものなんて何もない。この原因を突き止めたところでわたしが変わる訳でもなく、また今までと変わらない日が続くのだから無理に知る必要なんてないのだ。
 わたしは麻井さんから受け取った豆腐の入った袋を持ち直し、丁寧にお礼をする。それから回れ右をして葛野さんの八百屋へ足を向けたところで、背中に声をかけられた。
「そういや沙紀ちゃんなら知ってるかもしンねェと思ってな」
「なんでしょう」
 顎髭をさすりながら店長は少し恥ずかしそうな顔をした。
「花火って、どんなもンなんだ?」
「…………」
 ……そんなに知られていないものなんだろうか、花火って。


***


「沙紀、明日の夜は暇かい?」
 いつもの和室で夕食を食べ終えるころ、マスターは唐突にそう切り出した。
 食前酒を軽く煽り、揚げ出し豆腐を始めとしたわたしの料理を美味しそうに平らげて、今は濃いめに煎れたお茶をゆっくりとすすっている。
「その質問は、わたしの雇い主であるこの家の主として如何なものかと思いますけど」
「僕が忘れっぽいのは沙紀も知ってるだろ? 何を言い付けたか、細かいことまでは覚えていられなくてね」
 勿論そんなことはわたしもよく知っているけれど、それを自覚しているのなら少しでも直す努力をしてほしい。
「そんなこと自慢しないで下さい。現在、マスターから仰せ付かっている用向きは特にありませんので、明日は空いています」
「ん、それはよかった」
 マスターは一人で納得すると、むき身になった蜜柑を一つつかんで、ひょいと口の中にほうり込んだ。この時期にしては少し早いので、割と小さめの蜜柑だった。
 そのすぐ隣で控えているわたしは、所在無げに視線を軽く泳がせている。蜜柑はわたしが剥こうと思ったのだけど、自分でやりたいからと言ってマスターに止められてしまい、今は手持ち無沙汰になっていた。
 開け放たれた障子から入り込むひやりとした風が、軒下にかけられた風鈴とてるてる坊主をゆるやかに揺らした。前者は高い涼しげな音を室内に響かせている。
「明日の夜は七夕祭で少し家を空けるんだ。今年のお祭は普段と一味違うことをやろうということになっててね」
 わたしの記憶違いでなければ、マスターの口から七夕という四文字が出たのは今のが今年初めてになる。
 マスターは蜜柑を食卓の上にゆっくりと置いて、こちらを真っすぐに見やる。目線はわたしよりも高く、藍色のゆったりとした浴衣を羽織っているとわたしよりも遥かに背が高く見える。無造作に梳かした黒髪と漆黒の瞳は、何物をも吸い込んでしまいそうなほど黒くて綺麗だった。
 口元が柔らかく緩み、笑みの形を作る。
「そこで、沙紀には僕の手伝いではなく、奈月と一緒に祭を楽しんでもらいたいと思ってるんだ」
「花火大会のことですね。奈月から聞いています」
「おや、知っていたのかい。奈月も口が軽いなあ、沙紀を驚かせようと思ったのだけれど」
 苦笑いしながらマスターはそんなことを言う。
 その悪びれない様子を見てわたしは小さくため息をついた。
「わたしは毎日モールへ買い出しに行っているのですから、奈月が話してくれなくとも自然と知ることになったと思います。マスターのように引きこもってばかりいるわけではないのですから」
「いや、そんなことはないよ。これでも適度に近所を散策しているんだからね。こもってばかりでは脳も腐敗してしまう」
「そういう問題ではなく、もっと人付き合いをしてください。街の方々にはほとんど毎日のように、あまり顔を見せないマスターの様子を訊ねられるんですからね? 少しはこちらの身にもなって下さい」
「相変わらず厳しいなあ、沙紀は」
 マスターは笑いながらも困ったような顔をするという、実に器用なことをしている。この人はいつだって笑ってばかりなので、それがいわゆる困った顔なのだろうと解釈することにしている。
「それはそうと、花火の準備などはお一人で平気なのですか」
「ん?」
 いきなり話題を戻したせいかマスターは首を傾げ、頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「マスターは少々抜けているところがありますから、それで支障が出やしないかと心配でなりません。当日はわたしも付いていた方が宜しいのではないでしょうか」
 例年通りのわたしとマスターの二人では、短冊やてるてる坊主をひとつひとつ処理していくには圧倒的に手が足りない。竹を火にくべるという儀式ではマスターも手が離せなくなってしまうので、集められたボランティアの男の人達をわたし一人で指揮しなくてはならなくなり、それもこなせない訳ではないけれどかなり骨の折れる作業になる。
 そこに今年は花火というイベントが加わるということにも関わらず、マスターから事前に相談を持ちかけてられるということもなかった。それが不安で仕方がない。
 マスターのことだから恐らく、わたしのあずかり知らないところであらかじめ準備をしていることだろう。
 それでも、マスターの忘れっぽい性分を思うと、わたしが目の前で見ていなければどんなミスをしでかすか判ったものではないと思ってしまう。
 わたしの心情を感じ取ったのか、マスターは納得したように笑む。
「ああ、その心配には及ばないよ、沙紀。今年は満月に手伝いを頼んでいるからね」
「ですけど、万が一ということも」
「沙紀、君にはこれまであまり休みが無かっただろ? 手間をかけさせてた僕が言うのもおかしな話だけど、折角なんだから明日くらいは仕事を忘れて、奈月と一緒にゆっくりと羽を伸ばすといいよ。ね?」
 マスターは有無を言わさずにそう畳み掛けた。たしかに相当な力を持つ巫女としても有名な満月さんがついていればわたしの出番はないだろうと思うし、信頼できるからこそ安心もできる。
 だけど、それでも完全に不安を拭い去ることはできない。定刻どおりに準備が終わらないのではないか、手順を間違えるのではないか、火傷をしてしまわないかどうか。
「……沙紀」
 名前を呼ばれてはっと顔を上げる。マスターは柔らかい笑顔でわたしのことを見つめて、少しだけ肩をすくめる。
「僕は大丈夫。だから、奈月のことをよろしく頼むよ」
 胸の奥が熱い。どうしてだか判らないけれど、また昼間と同じような痛みが走る。だけど、そんな痛みなどわたしにしか判らない些細なものだし、今のマスターとの会話とは何の関連性もない。世界にとっては、砂粒がひとつ落ちたのと同程度の事象だ。
「はい、判りました」
 マスターの頼みを受け入れること。それが今のわたしに課せられた使命であり、それ以外は全てどうでもよい瑣末事でしかない。
 わたしのこの不安はきっと職業病というものなのだ。こんなにも抜けているマスターに長く仕えていたから、いつの間にかそれが癖になってしまったに違いない。モールの誰かがわたしのことを心配症じゃないのと言っていたけど、まさにその通りなんだと思う。
 頷くわたしを見てマスターは一人で納得したように笑むと、また嬉しそうに蜜柑をほお張り始める。
 鈴虫の鳴き声のような風鈴の音は、部屋の中にひっそりと浸透していった。


***


 かくして七夕祭は幕を開けた。
 モールの大通りにはずらっと屋台が立ち並んでいる。今じゃその屋台の道具なんかもなかなか手に入らないというのに、今年の祭への意気込みは本当に尋常でないらしい。
 人々は今まで見たことのないものを見るかのようにその光景を楽しんでいるようだった。黒くて重い鉄板の上でそばを焼いたり、桶に赤くて小さな魚を放してそれを紙のへらで捕まえる遊びだったり、水の入った小さな風船を手のひらで弄んだり。毎年行ってきた祭は、ただモール一斉にバーゲンを開いたりといったその程度のものだったので、どれもこれも新鮮な出店だった。
 かく言うわたしも、それらを初めて見る一人ではあるのだけど。
「これが奈月の望んだお祭、ですか」
 わたしの隣で人の頭程もある綿のようなものを食べている奈月は、にこにこと笑いながら頷いた。
「まさかここまで本格的なのをやるとは思わなかったけどね。どう、沙紀ちゃんもこれ食べる?」
「美味しいんですか、それ」
「子供向けの綿菓子ってやつだけど、結構いけるよ?」
「それではお言葉に甘えて」
 その綿から一房つまんでちぎり、口の中に放ってみると、物凄く甘い味がじわっと広がる。ただ甘いだけという気もするけれど、でもとても面白い。たしかに子供受けは良さそうだと思う。
 奈月は何かを見つけたのか、突然その綿菓子をわたしに押し付けると、人込みの中を走って行ってしまった。
「ちょっと、奈月?」
 まだ無理をしてはいけないというのに、突然の運動は身体によろしくない。それに足の踏み場もないこの雑踏の中では、携帯端末を持っているとは言ってもはぐれるのはまずい。
 とにかくわたしは奈月を追って、彼女の消えた方へと向かった。
 左右にはてるてる坊主がそのまま光っているような電灯(提灯というらしい)が吊るされ、本物の竹が街灯を隠してしまうほど林立している。その提灯の独特な色の明かりのお陰で、祭の通りは橙色の空気に包まれていた。
 人も屋台も橙色に染まり、家族や友人同士で楽しげな会話を交わし、何処かのゲームで当たりでも出たのか歓声が沸き起こったりする。
 誰も彼もが楽しげで、満足そうだった。
 だけどわたしはどうだろう。
 確かに楽しくないというわけではないし、この空気に当てられていれば自然と気分も高揚する。奈月は嬉しそうにあれは何これは何と、わたしより年上なのにまるで子供のようにはしゃいでいた。その姿を見ることが出来ただけでも、十分にこの祭は意味のあるものだと思ってる。
 久方ぶりのオフということもあって羽を伸ばしているけれど、どうにも胸の支えが取れない。
 ふと、花火大会の看板が目に飛び込んでくる。あの意味不明な煽り文を見て、ああそうかと思い至った。
 わたしは、あの人のことが心配なんだ。
 オフを貰って羽を伸ばせば伸ばすほど、あの人が上手くやれるのだろうかと心配ばかりが募ってくる。
 別段能力のない人という訳ではない。むしろマスターはその道ではそれなりに名の知れた有名人なのだから、わたしが心配するまでもなくこなして見せるだろう。ましてや、「気流の魔女」と謳われる満月さんが一緒にいるのだから。
 またも胸の奥がちくりと痛む。
 数日前から感じるこの痛みは、恐らく、
「沙紀ちゃん、こんなところにいたんだ? 探しちゃったよ」
「奈月……」
 気づくと目の前に奈月が立っていた。額に汗を浮かべて、片手には水風船を下げている。
「一体何処に行っていたんですか?」
「小さいころにお姉ちゃんに連れられてやった射的屋さんを、ついそこに見つけちゃってねー。もうやってないだろうなって思って記憶からも消えかけてたんだけど、いやホントにびっくりしちゃった」
「へえ……」
 奈月はあそこの射的の重心の特徴はこうで、銃はどう持つと一番命中精度が上がるんだとかを嬉々として語った。わたしにはよく判らないので落とした景品はどうしたのかと訊ねると、周りで見ていた子供たちに全部上げてしまったと言う。子供好きの奈月らしい。
 わたしは懐からタオルを取り出すと、奈月の汗を拭い始める。そのままにしておけばまた体調を崩しかねない。破天荒な奈月の体調管理はいつでもわたしの役割だ。
 道端のベンチに二人腰を下ろしてそうしていると、通りを埋めていた人々の姿が徐々に減り始めた。懐中時計取り出して見ると、時計の針は八時十分前を示している。
「そっか、八時からだっけ、花火」
 花火大会はモールのすぐ脇を流れる大きな川で行われる。通りにいた人達は皆こぞって河原へと移動してしまったのだと思う。
 人口密度が減って夜風の通りやすくなったからか、少し肌寒い風が通りを駆け抜けた。奈月は赤いケープの裾を少しだけ寄せる。
「わたしたちも河原へ移動しますか?」
「そうしよっか。ついでにやきそば一個買って行こ」
「はい、判りました」
 屋台によっては、花火を見るためにすでに店じまいをしているところもあった。それほどまでに花火が期待されているのだと思うと、わたしが打ち上げるわけでもないのに少しだけ嬉しくなった。
 わたしたちは安くて美味しくて出来立てのやきそば屋を探して購入し、すぐそばの河原へと向かった。
 
 この街の人口は都会と比べると非常に少ないけれど、川辺に集まっている人の数はまさに黒山の人だかりというべきものだった。河原を埋め尽くす人工芝の上に、さらに花火を見にきた人達がそれを覆い尽くす。
「わ、凄い人……どっかいい場所ないかな?」
 奈月は買ったばかりのやきそばを早く食べたくて仕方がなさそうにして、人だらけの河原をきょろきょろと見回す。舗装された道を歩きながら座れる場所を探していると、丁度すぐそばで立ち上がった人達がいたので、二人してそこへ駆け込んだ。
「やっと座れた……やきそば冷めちゃわないうちに早く食べちゃおう」
 芝生に腰を下ろすなり、奈月はプラスチックのケースを開けて割り箸を二本取り出した。
「先に食べてください。わたしは残った分で構いませんから」
「ん、それじゃ遠慮なく」
 周囲を見渡すとわたしたちと同じように、場所を取ってからそこで食事を取ったり談笑したりという人達が多いようだった。あらかじめ混雑することを予想していたのかもしれない。花火大会宣伝の広告にもそういったことが書かれていたような気がする。
 時計を見ると八時二分前を指している。花火をいい位置から見ようという人達が、時間が経つごとに次々と河原へやってきた。わたしたちが到着した時から比べて倍近い人が、所狭しと河原を埋め尽くしている。
 わたしたちが座っているすぐ隣にも、狭い場所でも座るところがほしいという子供がひょいと腰を下ろす。
「花火なんて親しみのないイベントだっていうのに、こんなに人が集まるだなんて思ってもみなかった」
 奈月はやきそばをすする手を止めて、そう呟いた。
「そもそも私だって沙紀ちゃんにきちんと説明して貰うまで、花火のイメージなんて上手くつかめなかったんだから。ここに来てる人の大半がそうなんじゃない?」
「でも、街角の広告にはイラスト付きで紹介されていたじゃないですか。あれではだめなんですか」
 簡素だけど、確かにあの広告には夜空に花開くイラストが書かれていた。写真も何枚か載っていたように思う。
 だけど奈月は手をひらひらと振る。
「あんなのじゃイメージ湧かないんだよね。破裂とともに物凄い音がして、火の粉が空に花を咲かせる、って言ってもさ、やっぱ実物なり映像なりを見ないと判らないもんじゃない」
「そんなものですか」
 わたしはマスターと接しているお陰で、スクールの授業で習う以上の知識をいつの間にやら身につけているようだと、最近になって気づかされた。
 マスターは様々なことを知っている。千年以上も昔の古い音楽から新しい科学技術の知識まで、幅広く精通している。特に日本情緒の深いものを好んでいて、その中には当然花火も含まれていた。映像や資料が残っていないものでも、マスターの話を聞くと実際にそれを目の当たりにしているかのように吸収することが出来た。
 年配の人達よりもわたしのほうが花火について詳しかったりするのは、そういった環境下にあったから。
 わたしとマスターだけが知っているということが少しだけ嬉しかったけれど、でも、こんなに夢のある記憶を知らない人達の方が多いということに、わたしは寂しさを感じずにはいられなかった。
「っと、そろそろ始まるみたいだよ」
 奈月がそう言うと、川沿いにずらりと吊られていた提灯の明かりが徐々に暗くなっていく。街灯もいつの間にか消えていて、河原は一層深い夜の闇に覆われていった。
 しばらくすると、花火大会の開始を伝えるアナウンスがどこからとなく響いてきた。ざわついていた河原が一層騒がしくなって、歓声のようなものが上がる。組合長が挨拶をしているようだったけれど、子供たちや若者が騒ぐ声で何を言っているのかは聞き取れなかった。
 一人で盛り上がっているアナウンスの一際大きい声と共に、人々が歓声と拍手を送る。いよいよ花火が始まるらしい。
 対岸を見ると、ちかちかと二つの明かりが明滅していた。たぶんあの明かりがマスターと満月さん。この街、いや世界に名の知れた「魔法使い」と「魔女」の二人があの場所に揃っている。
「沙紀ちゃん」
 奈月が再び箸を止めて、こちらをじっと見ていた。
「はい」
「大丈夫、晶悟さんは失敗なんかしないよ。絶対に」
 わたしに優しく諭すように、奈月はそう言った。
「……」
 わたしは無言で頷いて、視線を対岸へと走らせた。
 ――わかっていた。
 わたしが居なくたって、あの人はちゃんと真っすぐに立って居られる。
 去年だってその前だって、たしかに抜けているところはあるけれど、マスターは大勢を前にすると大概そつなくこなせてしまう。モールへ顔を出さなくとも、何故かいつまでもみんなにその心配をしてもらえているのは、その人徳と物腰柔らかな性格のお陰。凄いことをやってのけるのに実は忘れっぽかったりする、その意外性がむしろ多くの人の興味を引き立てているんだということくらい、わたしにだって判っている。
 そして、それを判っていながらもマスターにきつく当たってしまうのは、きっと心のどこかであの人を独り占めしたいと思っているからに他ならない。
 この胸の痛みは、それを代弁しているもう一人のわたし。わたしが知らないことを他の人間が知っているということに不平を言い、これほどまでに尽くしているわたしよりも想われている奈月に嫉妬をしている。遠回しにあの人を孤立させようとしている卑怯者のこころが、わたしの中で暴れているんだ。
 ひゅるるっ、という高く細長い音が、空高く昇っていった。一瞬見えた光も、すぐに夜の闇に紛れて消えていってしまう。
 マスターの魔法に失敗という文字はない。脇に満月さんが控えているのだから、なおさらそんなことは起きない。
 そしてあの人はまた一歩、わたしから遠ざかって行く。
 
 空高く上っていった小さな灯火は次の瞬間、宵闇の中空で弾けた。
 
 夜空いっぱいに大輪の花が広がると、河原を埋め尽くしていた観衆達は一斉に感嘆の声を漏らす。
 その花は花弁を広げた後もただ消えるだけではなく、徐々に色を変え形を変え、その命が散るまでに精一杯の主張をして空に溶けていった。黄色とも赤とも形容し難い色から、緑、青と移り変わって行った。
 間隔を空ける事なく次の蕾が打ち上げられる。一瞬だけ見える蕾の色が青だろうと白だろうと、そのあとに開く花弁の色もその通りとは限らない。いざ開いてみると土星のような形をしていたり、柳が垂れるような形をしていたりと、見る人を飽きさせない。
 わたしの隣に座っていたはずの奈月はいつの間にか立ち上がり、夜空に向かって拍手を送り続けていた。よく見ると奈月だけではなく、河原に来ているほとんどの人達がそうしている。
 次々と打ち上げられる花火と、それから一瞬遅れて聞こえる炸裂音。
 美しい花が開くたびに口笛を吹く人、ただ呆然と見入っている人、仲間と一緒に騒ぐ人。その気持ちを表現する方法は千差万別だけど、誰もが一様に、表現し切れない深い感動を覚えてるということは確かだった。
「沙紀ちゃん、すごいよ! 大きな音!」
 奈月だけでなく、他の大勢の観客たちもほとんどが、花火を見るのは初めてのことだった。だからその感動は一際大きいのだと思う。
 火薬制限法や花火禁止の規則が施行されてからというもの、一切の花火は制限されていて、今ではもう映像もほとんど残っていない。老齢の方々にさえ、見たことがないという人は少なくない。
 日本古来よりの情緒を好むマスターのことだから、そういったことも考えて花火という演出を選んだのかもしれない。
 か細くて頼りない音とともに空高く昇って、大音響を響かせながら一気に蕾を開く。花火は消えてしまうのを名残惜しそうに輝き続け、わたしたちはその儚くて一生懸命な姿に見入っている。
 光と音の描く、刹那の芸術。
 わたしもただ、その一瞬のために生まれて来た小さな存在たちをぼんやりと眺めていた。
 絶え間無く描き出される夜空の幻灯会。次から次へと色とりどりの花が夜空に花を咲かせては散って行った。あまりの美しさに心を奪われていたのか、たった百発と短いはずなのに長く感じてしまう。
 その大会の終わりを飾る、最後の五発が打ち上げられた。
 相変わらず情けない音を伴いながら、五つの蕾がゆるゆると上空へ昇って行く。高く昇れば昇るほどその勢いを失って、花を開く前に一瞬だけ、蕾は輝きを失って誰の目からも見えなくなる。
 そして、今か今かと待ち焦がれていた人々の前に、一気に大輪を広げる。
 色も形も少しずつ異なる最後の花弁が五つ、わたしたちの夜空にぱっと咲く。
 光り輝くその閃光はわたしたちを照らし出し、河原に佇んでいたわたしたちの心の中にまで染み渡るかのように思えた。
 だけど、その後に聞こえて来た五つの音だけは、他のどの花火とも全く異なったものだった。
 わたしだけが気付いたのだろうか、周囲の観衆たちおろか奈月でさえも気付いていないようだった。
 それでもそれが聞き間違いであるようには思えない。爆音に混じって耳元で囁くような声が、わたしには聞こえていた。まるでその最後の五発だけを聞いてほしいがために、他の花火があるかのようにさえ思える。
 全ての花火を打ち終えた会場は、凄まじい熱狂っぷりだった。酒を煽って騒いで踊って。まるでこの河原がまるごと宴会場になった、そんな気さえ感じさせられた。
 だけど最後の花火から発せられていたメッセージがわたしの耳に焼き付いてしまって、奈月がその輪に入ろうとしているのを制止する以外のことは考えていられなかった。
 
 ――その五つの花火は破裂する時、確かにこう言っていた。
 おめでとう、と。


***


 暗がりの中を奈月と駆けて行くと、そこには手を振る二つの影が見えてきた。一方は黒い髪をすらりと伸ばしたスタイルの良い女性、もう一方は見慣れた和装に身を包んだ背の高い男性。
「お姉ちゃんに晶悟さん! 二人ともお疲れさま!」
 二人の姿を確認した奈月は、文字どおり飛んでいって満月さんの腕の中へとダイブした。
「こら、なつ。またアンタはそうやって無茶して沙紀ちゃんを困らせる。もうちょっと大人しくは出来ないのかい?」
「今日は調子がいいから大丈夫。それに花火も凄かったし、もうそれどころじゃないってば」
 合計百発近い花火の嵐のあと、集まっていた人達も熱が冷め切らないのかそのままどんちゃん騒ぎになっていた。その中に交じりたがっていた奈月を、なんとか説得してここまで引っ張って来たものの、やっぱりその熱を発散しないと意味がないようだった。
 あの花火が良かったこの形が凄かったと畳み掛ける奈月を軽くあしらいながら、満月さんはわたしの方へと視線を投げる。
「ったく。すまないねえ、沙紀ちゃん。うちの妹が手間かけさせちゃって」
「いえそんなことはないです。お陰でとても楽しめましたから」
「そうかい、そりゃよかった」
 奈月はスクールであったおかしな話を母親に教えたくて仕方がない子供のように、あれやこれやとマシンガンのように喋り続ける。人生で初めて花火を目の当たりにしたのだから無理もないと思う。モールの大人達でさえ大騒ぎするくらいなのだから、奈月が黙っていられるはずがない。
「もしかしてその太鼓が、あの物凄い音の種?」
 奈月は満月さんの真横にある巨大な和太鼓を指す。このご時世見かけることは少なくなったけれど、その直径は子供の背丈程もあった。見上げるほど大きなその和太鼓は、わたしも今までに見たことがない。
「そういうこと。んで晶悟の腰掛けてるその筒が、花火のダミーを打ち上げてた装置ってわけ」
 打ち上げていた花火は本物じゃない。それはわたしも奈月も知っていた。
 手初めに組合が花火大会の告知を出すことによって、人々には「花火が行われる」という情報が焼き付けられる。花火というものを知らない人には広告などのイラストや写真、そして口コミでその子細が伝わって行く。あとは花火大会当日に、マスターが適当な火薬を打ち上げて満月さんが太鼓を叩き、観衆から見てそれらしい風を見せれば魔法は完成する。
 大勢にあらかじめ刷り込まれた情報と、そして視覚、聴覚からの強い刺激。それらが互いに絡まりあって融合し、その結果として「花火」を具現化させたのだ。
 その発現を補助、制御する力を持つ人間を、わたしたちは「魔法使い」「魔女」と呼んでいる。もっとも、そういった人達の存在はあまり知られていないので、普通に暮らしている人達には縁のない話なのだけれど。
 だけどその現象による恩恵は、わたしたちの生活にも確実に浸透している。例えば七夕の前日に軒下へ吊るすてるてる坊主も、その一種。多くの人が晴天を望めば、その願望は天気さえも揺るがしてしまう。
 今回の花火大会は、その発現を意図的に行ったもの、ということになる。
「ねえ、これ叩いてみてもいい?」
「だーめ。花火を見ていた人に聞こえたらどうするのよ。それこそ夢壊すわよ」
「ちょっとくらいいいじゃん。ね?」
「あのねえ……」
 満月さんには悪いけれどまだ熱の冷めない奈月は任せて、わたしはマスターの方へと足を向けた。
 
 マスターはというとぼんやりとした表情でキセルを吹かしながら、ただぼうっと夜の空を見上げていた。わたしも空を見上げるけれど、星もほとんど見えない、ただ薄暗い空間がただそこに広がっているだけ。
「何を、見ていらっしゃるのですか」
「天の川だよ」
 わたしが問うと、マスターは視線を変える事なく答えた。
「織姫と彦星は無事邂逅したのかなってね」
「マスターはどう思いますか。会えたと思いますか?」
 ゆるく眠そうな顔をして、マスターはうーんと唸る。
「沙紀はどう思う?」
「ベガとアルタイルは何光年も離れているのですから、不可能です」
 わたしがそう言うと、マスターはからからと笑う。
「ははは。うん、確かにその通りだね。宇宙は膨張しているのだから、むしろ日に日に離れて行くと言った方が正確かもしれないね」
「ですけど、それはベガとアルタイルの話です。織姫と彦星ではないです」
 マスターは嬉しそうな顔をしてわたしの方へ向き直る。ひとつ頷くと、わたしにその続きを促した。
「今夜は晴れていますが、もしかしたら川を渡る舟に穴が空いていたかもしれませんし、風邪をこじらせて会えなかったかもしれません。わたしにはそこまで判りません」
 対岸の喧噪も奈月のマシンガントークも、今は遠い場所での出来事であるかのように、わたしの耳には微かにしか聞こえてこない。目の前にはマスターと、そして夜空がただ広がっているだけ。
「もしそんな理由で会えなかったのなら、それは寂しいことです。だからどうか無事に会えていてほしいと思います」
「そうだね」
 キセルを円筒の縁にかつんと強く当てる。そうして中の灰を捨てると、マスターはキセルを懐へと仕舞った。よっ、と小さく掛け声をかけながら腰を上げ、裾を軽く払う。
「うん、実に沙紀らしい考え方だね。だけど、僕はそう思わないよ」
「え?」
 両腕を袖に突っ込んで、ゆらゆらと歩いてくる。
「確かに、二人は会えなかったかもしれない。沙紀の言う可能性は否定出来ないし、その確率は僕たちには全く判らない未知数だ」
 気付くとマスターの姿は既にわたしの目の前にあった。こうして立って並ぶとマスターの顔は十センチも上に来るので、わたしは自然と視線を持ち上げる。
「だけどね、沙紀。その二人は会えなくても、寂しくなったりしないんだよ」
 マスターはわたしの頭に手を乗せると、くしゃりと撫でた。
「どうしてですか。折角一年に一回の機会だというのに会えないというのですから、寂しいと感じるのは当たり前では……」
「今年会えなくても来年会えるじゃないか」
 マスターの顔はにっこりと笑っていた。
 それはいつもの表情を誤魔化しているような笑顔ではなくて、マスターの本当の笑顔。
「来年会えなくたって再来年がある。そうやって考えていれば、寂しいだなんてこれっぽっちも思わないさ。愛だとか恋だとかそういった、執着や願望に近い感情っていうのは、人が思っているほど脆くは出来ていないものなんだよ」
「…………」
 そう、だろうか。
 乙姫や彦星はそうかもしれない。互いを想って会える日に思いを馳せ、それで日々を満たして行くというこもありえなくはない。むしろそう考えた方がロマンチックだし、夢がある。
 でも、それが全ての人に適用出来るかと言ったら、そうじゃないはず。少なくともわたしの中に眠る獣は、それで満足していない。
「うーん」
 マスターは再びわたしの頭を撫でる。
「今日は元気がないね、沙紀。どこか具合でも悪いのかい?」
「いえ、そんなことはないです。ただ少し、考え事をしていたので」
「それなら良いのだけど。いやはや、君のために催したこの花火大会が、もしや気に入ってもらえなかったんじゃないかと思ってしまったよ」
「……え?」
 一瞬だったから聞き間違いだと思ってしまった。
 けれど、反芻してみるとそうではない。たしかに今、マスターはわたしの知らなかったことを口にした。
「今、わたしのため……と言いましたか?」
 いつの間にか、奈月と満月さんは和太鼓と一緒に居なくなっていた。周囲の喧噪もぱたりと消え失せていて、この河原に居るのはわたしとマスターだけ。
 マスターは不思議そうに首を傾げる。
「あれ、奈月から全部聞いたんじゃないのかい? このお祭り騒ぎは全部、沙紀のために仕込んだものなんだよ」
 聞いていない。例年のものよりも拡大したお祭をやる、というそれ以上のことは一切聞かされていない。
「それは一体どういう……」
「奈月から言い出したことなんだけどね。今年の七夕は色々とあやかっているようだし、丁度いいから今までの感謝も込めて沙紀に何か出来ないかっていう話になったんだ」
「その話はわたしも聞いています。けれど、わたしのためだったなんて……」
 マスターは笑顔のまま首肯する。
「あの子もあの子なりに、何かしらの形で沙紀へお礼をしたがっていたみたいでね。少し体調が崩れただけで看病に駆けつけてもらっていることに、ある種の負い目のようなものを感じていたんだろうね。けれど、まさか組合長のところへ駆け込んで示談するとまでは思いもしなかったよ」
「それで、行き当たりばったりの奈月に代わってマスターが花火を提案した、ということですか」
「うん、そういうことだね。結果的には、僕一人で美味しいところを全て持っていってしまったみたいだけど」
 奈月がマスターに遠回しにねだったというのは、つまりこのことだった。それはつまり、奈月もマスターも、そして満月さんも、わたしのために尽力してくれていたということ。
「わざわざわたしのために、こんな大掛かりなことを……」
「気にすることはないさ。普段から僕も手間をかけさせているからね、今日くらい、沙紀もゆっくりするといいよ」
 今まで悩んでいたのが馬鹿みたいだった。何も知らされていなかったのは、わたしが至らぬせいで要らなくなっただとか、そんなことではなくて、もっと単純なこと。ただわたしを驚かせたくて、喜ばせたくて、そう振る舞っていたというだけだった。
 どうしてそれに気が付かなかったのだろうか。奈月も、マスターも、豆腐屋の麻井さんやモールの人達も、こんなにもみんなは優しくしてくれていたというのに。
「でも」
 空を見上げると、ゆっくりだけど確実に天球を横断して行く小さな遠月の姿があった。それを追い抜こうと必死で昇って行く近月の姿も見える。
「どうして今日なんですか」
 二つの月はどちらも円いとは言えない形をしていないけれど、今日はどちらの月も満月のようだった。
「ん?」
「わたしが言うのもおかしな話ですけど、わざわざ七夕の日にする必要などなかったのではないでしょうか」
 わたしがそう言うと、マスターはくすりと笑う。
 また何かわたしはおかしなことを言ったのだろうか。柔らかい笑みを湛えたまま三度、マスターはわたしの頭をくしゃくしゃと撫でる。

「だって、今日は沙紀の誕生日じゃないか」

 ――ああ、すっかり忘れていた。
 いつだったか、小さいころに七夕祭のせいでわたしの誕生日会が中止になったことがあった。わたしは泣きじゃくって、もう誕生日なんて要らないと叫んだ覚えがある。
 それ以来、誕生日を祝ってもらうことはなくなった。次第にわたしの記憶の片隅に追いやられていって、言われるまで思い出せないようになっていたみたいだ。
 だからなのかもしれない。誕生日祝いがなければ、他には結婚の時くらいにしか「おめでとう」と言われる機会はない。何年間も言われてこなかった懐かしい言葉だから、わたしはさっきの花火が「おめでとう」と言っているように聞こえた時、過剰に反応していたんだ。
 胸の奥に使えていた針が、するりと抜け落ちるような感覚があった。完全に針がなくなったわけじゃない。でもわたしを苛んでいた痛みはどこかへ消えてしまい、目の前が一気に晴れ渡ったかのようだった。
 マスターの言葉は、いつだってわたしのてるてる坊主だ。それは今までも、そしてこれからもそうなんだろう。
 マスターはいつの間にかわたしから離れて、並べられた円筒の前に立っていた。
 あの時の花火が本当に「おめでとう」と言っていたのかどうかは、魔法を行使していたマスターと満月さんしか知らない。だから今ここで訊いてしまえば、その真偽は確かめられる。
 けれど、わたしはそうしなかった。
 わざわざ訊いて確かめる必要なんてない。あのダミーの火薬と和太鼓の音は多くの人の前に花火として具現化した。だから、もしその五文字の言葉がわたしに聞こえたのなら、それは本当にそう言っていたということ。空耳だろうと何だろうと、聞こえたものは聞こえたのだから。
 すべてのものをありのまま受け入れること。それが魔法を理解する上での基本だと、マスターは言っている。
 だから、わたしもそれに従おう。
「マスター」
 何度呼んだか分からないその名前を、わたしは口にする。
「わたしのために、こんなにも素敵なプレゼントを用意していただいて、本当にありがとうございます」
「気に入ってくれたかい?」
「はい。生涯忘れません」
 満足そうな笑みを浮かべると、マスターは足元の円筒に向き直った。
「けれど、マスター」
「なんだい」
「わたしを気遣っていただけるのは嬉しいのですが、マスターお一人ではその筒を運べないでしょう?」
 わたしがゆっくりと近寄ると、マスターは申し訳無さそうに笑いながら「お願いするよ」と言った。
「……もう少し満月さんを見習って、体力も鍛えたらどうなんですか? 箸よりも重いものは持てないだなんて、洒落になっていません」
「あはは、体力仕事は僕の専門じゃないよ。だから、代わりに沙紀が居るんじゃないか」
 その言葉に呆れてものも言えなかった。
 けれど、そういうのは嫌いじゃない。
 
 その夜、二つの月は重なって一つの満月を創り出していた。


***


「アンタあれを見せつけられてもまだ晶悟と付き合うつもりなの、なつ」
「うん?」
 満月はゆるく紫煙を吐き出す。
「あの二人の間に割って入るのは、アンタでも無謀だと思うんだけど?」
「……判ってるよ」
 肩で羽織っている赤いケープの裾を引き寄せると、奈月は夜空を見上げた。
 頭上には小さくてのろまな遠月、そのすぐ脇にはすでに距離を空け始めている近月。
 奈月には、近月がまるで自分のように思えた。
「でも、好きなことに変わりはないから」
 目の前を流れる漆黒の川と、吹けばすぐ消えてしまう紫煙をじっと見つめる。
「まあ、アタシは止めるつもりなんかないけど」
「お姉ちゃんなら、そうするだろうね」
 まだ吸い終わっていない煙草を川へ投げ入れると、満月は勢いよく立ち上がる。
「はー……沙紀ちゃんも大変だねえ。ノイローゼにならなきゃいいんだけど」
 そう言いながら、満月は奈月へ手を伸ばしてその身体を起こさせる。小さく咳き込む奈月の背中をさすりながら、二人はゆっくりと歩き出した。




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