Zephyr Cradle

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竜の呼び声 序章

 雀の鳴き声と共に目が覚めた。今日は昨日に引き続き快晴よろしく日の光が眩しい。そよそよと吹く西風が頬をかすめて気持ちの良い一日になりそうだ。
「んー……」
 大きく伸びをしたあと、枕元に置いてある携帯電話を見やると無機質なデジタル時計は六時半を表示している。ついでに画面の端には小さなメールマークがぴこぴこと点滅していた。多分いつものごとく飛鳥姉からのメールかなと思う。
 布団の中でもぞもぞと動きながら携帯電話を掴み、ぱちりと勢い良く蓋を開ける。ボタンを操作してメールの内容を確認すると予想通り送信者は飛鳥姉。どうせまた終電で帰ってきたとかなんだろう、受信時刻は今朝(と言っていいんだろうか)の二時。夜更かしはするなと言っているのに相変わらずこの癖は治っていないようだ。
 本文もいつも通り、今日会った男はかっこ良かっただの可愛かっただのまたよく恥ずかしげもなくこんな文章を送りつけてくるなと思う。どうせまた大学の友人を捕まえて部屋に連れ込んでいちゃいちゃして言葉に出来ないようなことを色々した挙句、数日でその相手を投げ出してしまうというのは正直どうかなと思う。いつもメールで飛鳥姉にそういうことは似合わないよと言っているのだけどちっとも治る気配はなく、しかもその現状報告や愚痴を僕にぶつけてくるのだから勘弁して欲しい。
 今日もまた背の高いハンサムな男の人を捕まえてきたらしい。飛鳥姉の毒牙にかかった人間はこれで何人目だろう。
 メールにはこちらもまた適当に返信しておく。他愛も無い世間話を述べてから、相手の人のことも考えて付き合ってあげなよと最後に付け足して。
 メールの送信が終わると蓋を閉めて再び布団の上に放り投げる。いい加減着替えなければならないのでするすると布団から這い出た。もう一度大きく伸びをして布団を畳む作業に入る。
 いつもと変わらない手馴れた順序、動作。手早く押し入れの中に片して制服に着替えた。
 この家には今、僕以外の人間は居ない。
 両親は世界を駆ける考古学者で、一年ほど前まではこの家に帰宅していたのだけどまた何を思い立ったのか、「今度は手土産に水晶の髑髏を持って帰ってきてやるからな」とか言いながら海外へと飛び立った。今回目をつけたのはオーパーツだと言っていたのだけれど――
 そんなものより早く帰ってきて欲しい。
 この家は伝統のある書院造りで、部屋数も多く広い。玄関と庭のある棟と寝室や客間のある棟の二つに分かれている、要するに古臭い和風建築。こんな家を一人で面倒見ていくのは本当に疲れるんだということをあの人たちは判っているのだろうか。何が最も疲れるってそれは勿論、掃除。
 もう一人の血縁者である飛鳥姉は、あのハイテンションな親馬鹿二人――飛鳥姉はいつもそう言っていた――にうんざりしてしまって、大学進学が決まった途端早々に大学近くのアパートを借りて一人暮しを始めてしまった。結局飛鳥姉が家を出て間もなく両親二人も出ていってしまったので僕は一人残されてしまったのだ。
「……はぁ…………」
 一人暮しを始めさせられて一年が経つ。不平不満はあるけれど実際のところ、もう慣れてしまった。料理や洗濯、掃除なんかは昔からよくやっていたので家事に困る事はないし、今ではどの箪笥、押し入れにどんなものが仕舞われているのか完全に把握している。
 不自由など何一つないはずなのだけれど、妙に不満は残る。
 長袖のワイシャツと黒いズボンに身を包み、荷物を確認してから台所へと向かう。

 開け放たれた窓からそよ風がまた頬を撫でた。柔らかい朝日と秋風が優しい一日が、今日も始まる。

            *

 こつこつと黒い革靴のつま先を床に叩きつける。乾いた音が玄関と廊下に響いた。
 白米、味噌汁、焼き魚といういたってシンプルな朝食を終え、洗濯物を南側の軒下に干すと朝の準備は終了。それを終えると大体八時くらいになっている。懐中時計を開くと細い針は八時十分を指していた。学校までは二十分もかからないのでこれくらいに家を出れば十分に間に合うかなと思う。
 黒い鞄を持ってがらがらと玄関を開けると朝の日差しがとても眩しく目に飛び込んでくる。
 秋といっても今はまだ初秋でだいぶ涼しくはなったのだけれど、夏の暑さがほんのり残っていたりするのでやっぱり日差しは痛い。
 ここでそんな感傷に浸っていても仕方が無いのでがらがらと戸を閉めた。鍵はかけない。この家を囲う白い土塀と門には風水だか陰陽だかなんだか良く判らない仕掛けが施してあるらしいので滅多な事じゃ侵入者はないのだと母が言っていた。本当か嘘かは知らないけれど少なくとも両親が鍵を閉めるという行為を僕は見た事がないし、泥棒が入ったという話も聞いた事がない。だからそれに倣って鍵を閉めるということはしないし家中の戸締りもしない。そもそもそういう考えがこの家の者にはないのだから仕方がない。
 家から一歩外に出ると短い石畳と砂利の通路があり、向かい側に大きな門が聳えている。聳えるという表現は誇大表現ではあるけれど本当にでかい。こんな大きな門をよく作ったなと本当に感心させられる。
 古くてところどころ草臥れてはいるけれど立派な木製の玄関門。見上げんばかりのこの門は何かを守っているような、そして守られているような雰囲気を醸し出している。良く判らない、けれど安心させられるこの門は今までに一度も開いた事がない――普段は潜り戸から出入りしている――のだと聞いていた。
「おはよ」
 これも何故だか判らないけれど、この大きな門に挨拶をする習慣が僕と飛鳥姉にはあった。特に返事があるわけでもなく見返りがあるわけでもなく、ただいつもこの門を見ると挨拶をしなければならないような気にさせられる。苦痛なわけじゃない、むしろそうすることによって気持ちが晴れて一日が安心して過ごせるような気にさえなってくる。
 だからこの門が生きているような錯覚を感じたことが幾度もある。正直なところ、僕もこの門は生きてるんじゃないかと思う。この家を、僕たち家族を見守ってくれているのだ。――何からなのかは全然わかんないけど。
 この家の造りは少しだけ変わっていて石畳の両側には庭が広がっている。玄関から見て左手には池と鹿威しのある水の庭園、右手には簡易的な竹林を装った緑の庭園。両側とも北向きの縁側にしつらえてあるのでとても過ごしやすい。手入れは面倒だけれど作られた当時の技術が凄かったのか、そこまで手を加えなくても十分にこの状態を維持してくれるのでありがたかった。

 かこん、

 竹が石を打つ音が響く。
 いつ聞いても、この音はなんだか間抜けで笑ってしまう。笑ってしまうのだけどどこか安らぐこの明瞭な音は嫌いじゃない。

 かこん、

「――――――――え?」

 鹿威しに気を取られていたけれど、そこではなく、その反対側。
 普段感じるそこよりもいやに空洞感がするのと、土の匂いが充満していることに今更気付いた。
 そこに、訳の判らないものが出来ていた。
 見るからに、というかどこからどう見てもこれは。
「……クレーター?」
 ――そうとしか表現できないんだけど、これ。
 緑の庭園、竹林は見事に薙ぎ倒されて、縁側の床は一部が割れて剥がれかかっている。白い土塀に土が無残にも飛び散って、埋まっていた石や竹の根が剥き出しになっている。
 そしてその衝撃の中央、綺麗な円形に窪んだ穴。クレーターというものを生で見た事はないけれどテレビや本の知識から察するに多分これがそうなのだと思う。土塀が破壊されることなくひびも全く付いていないのは不幸中の幸い。
 鞄が手からするりと落ちて、そんなことは気にも止めずに僕はそのクレーターの中心地に駆け寄った。近付くと一層土の匂いが強くなる。思わず鼻を覆ってしまうような匂い。
 窪んだクレーターの深さはあまりないようで、人の背ほども窪んでいない。穴の広さもそれほど土塀に影響がなかったあたりからも判るのだけど広くはない。それほど大きな、重いものが落ちてきたわけではなさそう。
 でも、見つからない。見当たらない。
 その落ちてきたであろうモノが。
 普通に考えれば穴の中心にあるはず。まさか、その下に潜ってしまったんだろうか。小さな隕石ならそういうこともありえるかもしれない。この衝撃なら考えられる。
 ちょっとそれが気になってきた。折角だからスコップでこの穴を埋めるついでに何が落ちてきたのかも見つけようと思う。この掘り返されてしまった土も早めに戻さないと、土が乾いてしまったり虫が湧いたりと後々面倒なことになりかねないので、今日は仕方なく休講を取るしかないかなと一つ溜息をついた。
 取り敢えず落としてしまった鞄の元へと戻り、埃をはたいてクレーターすぐ脇の縁側に置いた。
 そういえば今更だけどこのクレーター、いつごろ出来たものなんだろう。
 昨夜寝る前には無かった。この縁側でお茶を片手に読書をしていたのだからそれは確実。だとすると当然ながら寝てから起きるまで十時間くらいの間にこれは作られたということになる。
「…………」
 我ながら呆れてくる。確かに自分は夜に弱くてだからこそいつも早寝早起きしているということを自覚はしていたけれど、まさかこんな衝撃的なことが自宅の庭先で起きて振動や爆音を聞いておきながら全く目を覚めなかったというのはかなりのショックだ。そこまで鈍い人間ではないと……思っていたのだけど。
 ここでしょげていても仕方が無いのでとにかく今はスコップを取りに倉庫まで向かうことにした。ワイシャツの長袖を二回折り返して、いざ気合を入れる。これだけの量の土を一人で元に戻すには半日くらいかかるかもしれない。
 そんな時に、ふと紅い影が視界をかすめた。
「?」
 紅い影が消えた先に視線を合わせる。するとそこにまた、ありえないモノを見た。
 そもそもその紅い影は動いてなんか居なくて、ただ僕が視線をずらしたから動いたように見えただけなのだ。
 縁側にある紅い影は動かない。動けない。

 紅いコートを羽織った女性が気を失っていた。

「……は? え……えぇっ?」
 なりふり構わずとにかくその女性の元へ駆け寄った。縁側の壊れていない床の上で苦しそうな表情を浮かべている。眠っているようには見えない。気を失っているはずなのだけど、こんなにも何かに追い詰められているような雰囲気を感じてしまうのは何故だろう。
 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。この女性が何者かは判らないけれどとにかく安静にさせなければ。こんなところで気を失っているだなんてただごとではないはずだから。
「……」
 正直な話。女性を運ぶのってちょっと困る。
 この敷地内なら他人の目を気にする必要もないんだけれど、それでも気にするなと言われてもやっぱり女性の身体に触るのは抵抗がある。というか抵抗がなかったらそれはそれで問題がある気も――。
「……あー、もう!」
 今更躊躇っても仕方ないので覚悟を決めた。
 まず女性の背中側から両方の脇を抱えて仰向けにする。女性の身体は以外にも軽く、肩口まで伸びた真っ黒な髪からはほんのり甘い香りがした。今まで女性と接する機会なんてほとんどど無かった――飛鳥姉は除く――からこういう状況はなんだか少し……変な感じがする。
 女性は相変わらず苦悶の表情を浮かべたまま小さく唸る。少し無造作だったので起こしてしまったかと一瞬ひやりとしたけれどまだ気が付いてはいないみたいだ。思わず安堵の溜息が漏れる。
 そのままずりずりと部屋の中へと引きずっていく。十畳ほどの和室に丁度机が一つしか置いてないさっぱりとした部屋だったので、机を端に寄せて女性は中央に寝かせることにした。布団を敷こうかとも思ったけれどこの部屋に布団は無く、西側の寝室まで行かなければいけないのでそれは後回し。
「ふぅ……」
 畳に寝かせたけれど苦しそうな表情は変わらない。
 うなされているようで呼吸が荒く、もしかしたら熱でもあるのかもしれない。顔色もかなり悪い。
 ここまでやってしまったのだからこの際放っておく事も出来ないので女性の額をそうっと触ってみる。ほんのり温かい体温が手の平から伝わってくる。触れる艶やかな髪は細くて芯が強い。
 温度を覚えた手の平をそのまま自分の額へと当てがる。手の平に残る彼女の体温の方が少しだけ温かい。やっぱり熱が――

「――何をやってるんだ?」

「うわぁッ!」
 背後からかけられた声に驚いて思わず奇声が漏れた。ひっくり返るように横へ倒れ込むと声の主が視界に入って……そこでやっと誰の声だったのか気付いた。
「もう! 驚かすなよ、紅也!」
「別に驚かしたつもりはない。ただ一言声をかけただけじゃないか」
「それが突然だからびっくりしたんだって……」
 僕と同じ制服に身を包んだ長身の彼、佐々木紅也は縁側の外に立ち眼鏡の下でくすりと笑った。
「悪かった悪かった、驚かせたかったのは嘘じゃない。謝るよ」
「まったく……」
 この友人は意地が悪い。頭が良くて成績優秀、それでいて運動神経も抜群という校内でも一、二を争う有名人であるのにどうして僕に接する態度はいつもこんなものなのだろうか。さっぱり判らない。
 お陰で緊張感とかそういうものは全部吹き飛んでしまった。
「それにしても、まさかお前が女性を連れ込むようなことをするとは夢にも思わなかったぞ。飛鳥さんの血が遂に表れ始めたか」
「ちょっと待って……なんか絶対誤解されてるような気がしてならないんだけど」
 きっ、と紅也を睨み返した。
 あんなめちゃくちゃな性格の飛鳥姉と僕を一緒にされるのは困る。困るというかそれは誤解なんだってば。
「この女は僕がさっき玄関を出た時にはすでに縁側に倒れてたんだ。気を失ってるみたいだったから僕が介抱してあげてた、それだけだよ。別に飛鳥姉みたいに不純な動機じゃ――」
「冗談だ、真に受けるな」
 対する紅也はさらりと言い放つ。
 ああもうなんだかよく判らないけど腹が立つのでこいつ無視してやろうと心に決めた。
 膨れている僕を見て紅也は縁側に腰を預け、またにやりと笑む。どうにも腑に落ちない、この態度。
「つまりそこの女性は、この不可解な陥没と共にこの家の庭先に現れ気を失っていたところを先ほどお前に助けられたと、そういうことなんだな。良く判った」
「……やっぱり紅也も、この人は陥没と関係があると思う?」
「この陥没もその女性も、そしてこの剣も、突然こんな風に現れるなんて不自然で不可解。普通に考えればそういう結論に至るだろうな、関係がないと思う方が無理というものだ」
「剣?」
 気付けば無視と決めた心をあっさりと覆させられてしまっていた。自分の決意の弱さにうんざりしながらも紅也が指した縁側のちょうど真下あたりを覗き込む。
 あまりにも唐突なクレーターと縁側で横たわる女性に気を取られて気付かなかったけれど、それは確かにあった。長さは一メートル強ほど、柄は刀身の延長のようになっていて全身は艶やかな黒。鍔は動物の角のように飛び出してぐにゃりと歪んでいる。一見すると黒曜石のように見えなくもない漆黒の剣だ。
 明らかに今この世界には不要なモノ。時代はこんな剣なんてものを必要とはしていない。戦争でさえこれを必要とはしないだろう、戦争で必要なのは情報と銃弾なのだから。
「これはその女性の持ち物だと推測するのが妥当だろうな。まさか木野家の庭先にこんなものが埋まっていて衝撃で掘り返されたなんてことは考えにくいからな」
「……よくそんな発想出てくるね」
「取り敢えず推測ばかりしていても仕方が無い。その女性が目を覚ますのを待つしかないな。……学校はどうする?」
 紅也は鞄を縁側に放り投げる。英和辞典なんかが入ってそうなそれはばさりといい音を立てて落ちた。
 頷いて返事を返す。
「休むしかないかな。この(ひと)、放っておけないしさ」
「お前ならそう言うと思ったよ。俺も付き合おう」
「僕はともかく、紅也は授業休んじゃうとまずいんじゃない? 成績や内申に響くんじゃ」
「この時期に今更成績がどうの内申がどうの言ってる奴はもう駄目さ。そういうのを気にしなければいけないのは、俺よりもお前の方じゃないのか?」
 ふっと意地らしく笑いながら紅也は言う。でもまだ進路を決めていないのだからなんとも言い様がない。進学するのかさえまだ迷っているのだから内申なんて何で必要なのか未だに実感が湧かないでいる。九月にもなってこんなことを悩んでいるのはおかしいとは思うのだけれど。
「ま、まあ……なんとかなるって」
 適当に曖昧な返事を返しておくと紅也はそれ以上追及しなかった。
 白い土塀に囲まれた庭の縁側、どんなルートで入り込むのかそよそよと涼しい風が髪を揺らす。少しだけ高くなった日と少しだけ短くなった影が大地を温めて土の匂いを一層際立たせてきた。初めはその匂いも臭いなと感じていたけれど今はなんだか、それが心地良い。
 紅也は足を前に投げ出して身体も前傾姿勢、何かを考えているようだった。このクレーターや女性、剣について考えているんだろうなと思う。どんな結論に至るのか、多分僕の頭ではきっと思い付かないようなことを考え出してくれるはずだ。
 学校があるはずの平日の朝、こんなにゆっくりとしたのはいつぶりだろうか。
 普段からそういう情景を眺めるのが好きだった。
 ――朝の白い空気。昼の輝く太陽。黄昏の朱い雲。宵の静寂。
 ちゃらんぽらんな父だったけれど自然を感じるということを忘れてはいけないとしきりに言っていたのを覚えている。その所為かよく山や海なんかに連れて行ってもらっていた。
 懐かしい思い出。
 一人で暮らすようになってからごたごたしていて忘れてしまっていたあの感情を、今また思い出す事が出来たような気がした。目の前に三つほど不可解なモノが転がっていたりはするんだけれど。
「それじゃ、この女が目を覚ますまでクレーター埋める作業でもやっちゃおうかな」
 勢い良く立ち上がって腕をまくる。気合も十分、脱いでいた靴を履いていざスコップを取りに――
「いや、その必要はなさそうだ」
 首だけ回して部屋の中を見やった紅也と目が合って、それから紅也は視線を少しだけずらした。
 その視線の先には。

「……あ…………」

 女性が上体を起こしてこちらを見つめていた。
 瞳の色は髪と同じく漆黒。吸い込まれそうなほど澄んだ目をしている。
「……」
 女性はじっとこちらを見ているだけで何も喋らなかった。何かに怖がっているような驚いているような、そんな感情を混ぜこぜにした表情を浮かべたまま。
「えーと……具合は大丈夫? この縁側に倒れてうなされてて熱もあったみたいだから勝手に部屋の中まで運んだんだけど」
「……」
 返事はない。ただその右腕で額を押さえて少しだけ苦しそうな表情を浮かべた。頭痛で頭を押さえるような仕草にも見える。
 大丈夫じゃないのなら大丈夫じゃないとそう言ってくれればいいのに。
 そう思っているとその手を離して、急にこちらを見つめてきた。こちら、というよりもどうやら僕だけしか視野に入っていないような気がする。
「えーと、僕の名前は木野恭介。こっちが佐々木紅也」
 気まずくなったのでとにかく自己紹介でもしておこうと思った。少しは場の空気が和らぐことを期待して。
 それでも女性はだんまりを通す――紅也もこちらに役目を押し付けて口を開く気はないようだ――のでむっとしてきた。喋れない訳ではないと思うし、言葉を理解していないようにも見えない。こちらの言葉を理解した上で黙っているような雰囲気があるからだ。
 それにしてもこのクレーターは彼女の責任でもあるのだろうから少しは責任を感じて欲しい。これを片付けるのは苦労しそうだということくらい見れば判ると思うのだけれど。
 本当に喋れないのかと思ってしまうほど黙っているのでなんだか意気消沈してしまった。大きく溜息を吐く。
 そして、なんとなく思い浮かんだ言葉を発してみる。

「君は一体、何者?」

 失礼な言葉だと判っていてもその言葉は自然と喉をついて出てきた。
 女性はぴくりと動じた。そして、
「……私は」
 ゆっくりと口を開いて女性にしてはややトーンの低い声を紡いだ。

「私は『シンリュウ』の一人、カルディア」

 そう、言った。




続きはサークルから発行されている「千変万花2 夏」をお読み下さいっ。
040823 掲載

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